インドネシア スハルト政権 政治体制

0000002270 00000 n スハルト(Soeharto, Haji Muhammad Soeharto[2] 1921年6月8日 - 2008年1月27日)はインドネシアの軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。, 第2代大統領(1968年 - 1998年)。30年以上在任し、開発独裁政権として同国の工業化を推し進めたが、アジア通貨危機後の政治不安、社会不安を沈静化できず、大統領職を辞任した。在任中から、身内への不正な利益供与などについての批判を集めており、辞職後、その法的責任を問われたが、高齢、健康問題を理由に刑事訴追は取り下げられた。, 植民地(オランダ領東インド)時代のインドネシアの中部ジャワ州、ジョグジャカルタ近郊の農村、ゴデアン村に生まれる。父親は村の水利役人、母親はジョグジャカルタのスルタン夫人の遠縁にあたる女性だった。, 両親の離婚に伴い、各地を転々としながら、現地語(ジャワ語)で小学校教育をウルヤントロで終え、その後もウォノギリ、クムスと移転しながら、18歳で中学校を卒業した。農業銀行の見習い行員を経て、オランダ領東インド軍(蘭印軍)に入隊。すぐに軍曹に昇進するが、太平洋戦争の開戦後、蘭印軍は日本軍に降伏、スハルトも失職した。, 日本軍政期には、1943年、軍政当局が組織したペタ(郷土防衛義勇軍)に採用される。そこでも小隊長、中隊長へと昇進し、インドネシア人士官の訓練にもあたった。, インドネシアは日本が降伏した2日後の1945年8月17日にスカルノにより独立を宣言し、ペタは8月19日付けで解散したが、降伏した日本に代わって植民地支配の復活を狙ったオランダとの間で独立戦争がやがて始まる。この時期、オランダに抵抗する正規・非正規の軍事組織が多数発足したが、スハルトは同年9月に組織された正規軍に参加し、ペタ時代の実績を買われて副大隊長に選ばれた。翌10月に共和国軍が正式に発足すると、大隊長に任命された。このインドネシア独立戦争中、スハルトは野戦指揮官としての評価を高めた。なお、この時期、1947年、スラカルタ下級貴族の出のシティ・ハルティナ(通称 ティエン)と結婚している。, そして陸軍で実績を重ね、インドネシア独立後もオランダの支配が続いていた西イリアン(ニューギニア島)解放(侵攻)作戦で活躍し、1963年に陸軍戦略予備軍の司令官に就任した。, 1950年代の議会制民主主義体制(1950年憲法体制)を葬り去ったスカルノは、大統領に強大な権力を付与した1945年憲法を復活させ、「指導される民主主義」を宣言した。スカルノは、勢力を拡大しつつあったインドネシア共産党をみずからの支持基盤として、外交的にも徐々に親共路線を強めていった。国軍内にも親共派の影響が広がり、スハルトら国軍主流派は危機感を抱いていた。, そのような状況下で、1965年9月30日、大統領親衛隊長ウントゥン中佐が率いる左派系軍人が、陸軍参謀長ら6将軍を殺害するというクーデター(9月30日事件)が発生した。事件の詳細な経緯はいまなお明らかにはなっていないが(スハルトは事前にこのクーデター計画を察知していたという説やスハルトによる陰謀説もある)、スハルトは、スカルノから事態の収拾に当たるための権限を与えられ、速やかにこれを鎮圧した。同年10月16日、陸軍大臣兼陸軍参謀総長に就任したスハルトは、事件にかかわった共産党の指導者・一般党員・共産党との関係を疑われた一般住民を大虐殺し、党組織を物理的に解体した。20世紀最大の虐殺の一つとも言われ、50万人前後かとも言われるその総数はいまなお不明。, 従来の親共路線の責任を問われたスカルノは、翌1966年2月21日に新内閣を発表して、なおも政権を維持しようとしたが、陸軍、イスラーム系諸団体、学生団体などによるスカルノ糾弾の街頭行動が活発となり、辞任要求の圧力を抑えることができなかった。同年3月11日、スカルノは秩序回復のための一切の権限をスハルトに与える「3月11日命令書」にサインし(させられ)、その実権をスハルトに譲った。スハルトは、1967年3月に大統領代行に、そして1968年3月には第2代大統領に就任した。, 《9月30日事件の外交文書公表(米国家安全保障公文書館)》 google_ad_width = 250; | 2-3. yłj�3��-&4�?f�sH ハビビ新政権の不安定要因 スハルト辞任と、プラボウォ中将の更迭及び12日にトゥリサクティ大学学生デモ隊に発砲してジャカルタ暴動のきっかけを作った17名の軍人を裁判にかけるだけに留まった事後処理は、ハビビ大統領就任という政治的妥協の一特徴を示す。98年1月にハビビ副大統領有力説がでただけで、ルピアの対米ドルレートが1日で40%も暴落したほどの不人気ぶりに示されるとおり、ハビビ新大統領の政治的基盤は脆弱である。すでに、新大統領就任の合法的手続きを確認するための国民協議会特別会議開催や総選挙実施のための準備日程、およびその手続きを巡り各界からのハビビ批判が多出している。ハビビ大統領としてはこれらの日程をできる限り先延ばしして、その政治生命の維持を望んでいる。 H��V}Lg���w�*4�@C��R�Y�n��|U��l�঄`���Չ�����Q�fc�����Ш��z������23?��k�_1���뇭f�{O����>��y�K �g. {f�5�a�d|�8VmpfƵ�������= Jmsh�_ŲU.k{��X�����/4,tӮ�R�r5숳�=-�q���7G��H}ƫ�*�oy�α��\��7�˼+��],�����/N�wk��^_Z�/�Ai�^�����k�K���4�2�^�US�'�}`"���c����A5Tl �~Ĵ������Y��,�e����,��/�,K��i��^P_�w���ND7ܧ4ֿ��Y�Y������m�7\ct�*w����a�5*�d�caX��zv�^�̯ʳ?q�6 2-4. SARA問題と国軍内部抗争 SARAとはインドネシアが国家の社会政治的タブーとしてきた問題である。これは、種族問題、宗教問題、人種問題、社会政治勢力間の問題(あるいは国軍内部の問題)の4つのインドネシア語の頭文字をとった略語である。SARAは暴動の際にもっとも目に見える発現をする。華人街の襲撃略奪は人種問題であり、華人襲撃はモスレムとクリスチャンあるいは仏教徒との宗教間抗争となり、暴動の背後には必ず国軍内部の権力闘争がある。また、東ティモールの独立運動はジャワ人の東ティモール支配への反発とモスレムとカトリック教徒の抗争として現れる。スハルト前政権はSARAを触発する行動は厳しく弾劾してきたが、ハビビ政府も間違いなく同様の姿勢をとる。ウィラント司令官も改革に名を借りた破壊行為に厳しい対処をすると明言している。しかし、「国軍内部の問題」とかっこ付きで示される問題は批判グループの見解であり、国軍は決して容認しない表現である。国軍の建前は内部問題がないことになっているからだ。しかし、過去、10年に1度の頻度で発生した反日暴動(74年)、ジャカルタイスラム暴動(83年)、メダンの反華僑暴動(94年)等の背後には常に国軍内部の権力闘争があり、これがSARA問題発現の最大の要因となっている。今回のスハルト失脚が国軍内の亀裂とジャカルタ暴動をきっかけにしたと言う観点からすると、SARAは明らかにスハルト体制のタブーであったといえる。ハビビ体制もスハルト体制同様にSARAからフリーではない。改革がどこまで進められるかは別として、スハルトが30余年の間に強化してきた体制とそれをバックアップしてきた国軍の体質は容易に変えられるものではない。現在国軍は一応の統制はとれているとはいえ、ウィラント司令官が完全に国軍を掌握し、その改革路線を実施するためには時間が必要である。更迭されたプラボウォ前KOSTRAD司令官も6月10日のハビビ大統領と国軍首脳との会議に出席しており、依然として一定の地位を有しているようだ。99年5月と同年末にそれぞれ予定されている総選挙実施と国民協議会開催をめぐって内部抗争が再燃する可能性がある。ハビビ大統領が続投できるのか、あるいはウィラント司令官が取って代わるのか、予断はできない。いずれの場合でもその決着は国軍の統一と支持にかかっている。ハビビ大統領は次の国民協議会に「みずから」立候補しないと明言したが、同大統領としては、現在与えられた大統領職権をフルに活用し、ハビビ政権の強化と国軍その他の支持を取り付け、続投体勢を準備したいところであろう。そのためには、ハビビ大統領としては総選挙と国民協議会をできるだけ遅らせて、時間稼ぎが必要である。 1945年憲法とパンチャシラの政治道具化 0000007983 00000 n 2-2. マクドナルド、ヘミッシュ(増子義孝・北村正之訳)『スハルトのインドネシア-伝統と近代化のジレンマ-』、サイマル出版会、1982年(原著は Hamish McDonald. 0000036357 00000 n 3-2. 経済再建に関してハビビ政府がやるべきことは、明確かつ実効性のある緊急再建プログラムを作成することである。すでにそのための下敷きとしてIMFのコンディショナリティーがあるが、これがインドネシア経済の実状にそぐわない部分が多かったために実行可能性という点で難点があった。インドネシア政府は財政補助金の削減を急ぐために、石油製品の大幅値上げをしたが、これが経済困窮下にある庶民の生活を脅かし、5月の暴動のきっかけになったことは明らかである。プログラム作成に際しては、IMF、世界銀行、アジア開銀等の国際金融機関の協力も必要であるが、インドネシアが主体性を持つことが重要である。経済再建の最初の難関である約800億ドルの民間債務問題も、6月上旬の国際銀行団との交渉で4年から8年の返済猶予となり、再建プログラム作成の条件整備が進んでいる。スハルト退陣により、KKN(腐敗、癒着及び縁者びいき)など従来のしがらみを断ち切り、斬新かつ合理的な政策立案の条件は整ったのである。残念ながら、新たに組閣された開発改革内閣はブディオノ国家開発企画庁(Bapennas)長官等の少数を除いて、閣僚の顔ぶれに新味が少ないことが気がかりである。若手の新人テクノクラートの登用が必要であるが、積極的にハビビ政権に参画しようとする人材は多くないようだ。 google_ad_slot = "1785567358"; ハビビ新政権にとって、国家経済の再建を急ぐためには、とにかく政治の安定が第一条件である。しかし、96年のメガワティ・インドネシア民主党総裁の引き下ろしの責任を問い、シャルワン・ハミド内務大臣の辞任を求める学生など急進グループによる政府批判は、政権内部の勢力バランスにも影響するであろう。同内相はハビビ大統領に近い人物とされている。また、政変以降にもメダンやスラバヤなどの地方都市では労働組合のデモなどが発生しており、治安当局と衝突し、死傷者が出ている。こうした状況から、IMFはコンディショナリティーの見直しを理由に援助資金の引き出しを遅らせている。早くとも7月にならないと援助の実施ができないとの情報が飛んでいる。バクリー・インドネシア商工会議所会頭も大統領に対して、国際的信頼を回復するために大使級のミッションを各国に派遣するように6月9日に勧告した。これについてはハビビ大統領も了承したが、問題はミッション派遣によるインドネシアの苦しい現状の説明だけでは国際的信頼の回復はできないことだ。 Copyright (C) JETRO. (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 日本人なのに日本語を勉強中。もうすぐインドネシアで日本語講師!外国人に「日本のすばらしさ」を伝えるべく「日本」ついてはもちろん、海外の情報もたくさんアップしていきます。外国の方々に「日本を好きになってもらえるように」。そんなことを意識して、ぼちぼち更新していきます。今年の目標も、「変わらないこと」。そのために「変わり続けること」。みなさん楽しみましょう、今回の人生。, yutonsmaileさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog スハルト(Soeharto, Haji Muhammad Soeharto 1921年6月8日 - 2008年1月27日)はインドネシアの軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。 ウィラント司令官に代表される現在の国軍の二重機能に関する理解は、民主化の必要性を認める改革路線である。もちろんこれには「秩序ある改革」を維持し、国家を不安定にする無責任な活動を許さないとする限定付きのものである。たとえば、東ティモール独立運動の集会などには厳しい弾圧がされている。二重機能論争の中身については、従来あまり明確に開示されてこなかったが、今回は国軍も国内外の理解と信頼を得るために明確化する必要が生じたようだ。スハルト辞任後間もない5月25日、スシロ・バンバン・ユドヨノ政治社会担当参謀長は記者会見で国民の改革期待に沿う二重機能の見直しを明らかにした。同参謀長はウィラント司令官の懐刀であり、現在の国軍のトップイデオローグといわれる。新しい二重機能とは、(1)国軍が従来のように常に政治の先陣にある必要がないこと、(2)国軍は、歴史的経緯から重要な地位を占めてきたが、今後は、よりよい目的に向けて影響力を有する地位に立つように変革する、(3)国軍は直接的な方法で社会政治勢力に影響力を行使してきたが、今後は間接的な影響力を維持する、(4)国軍は国軍以外の勢力との友好関係を基礎に政治的役割分担を行う、の4点である。ユドヨノ参謀長の発言は今後の国軍の政治関与の方向を示すが、これが国軍内で合意されたかどうかは未だ明らかでない。しかし、改革はすでに国際的にも約束されており、これを実施できない限りインドネシアに対する信頼の回復はなく、不安定状態が長引くことになる。 経済再建にとって具体的に取るべき課題は山積している。崩壊してしまった金融システムの再建、一説には過去からの累計で2600億ドルを超えるとされる海外に逃避した華人系企業と個人資産の呼び戻し、資金や原材料不足によって極度に落ち込んでいる生産活動の再開等のほかに、新規外国資本投資の呼び込みなどである。また、50年来の大干魃により、98年中に米供給だけでも400万トン不足という大凶作からの回復、1300万人に上る失業者対策など、きりがない。こうした諸問題の処理が遅れれば遅れるほど、社会不安が増長することは間違いない。これらの問題への対応を誤れば、暴動再発の可能性なども否定できなくなる。そうした最悪の事態を避けるためにも国際社会はインドネシアの状況を十分理解して援助する必要がある。インドネシアは伝統的にナショナリズムが根強い国である。早急な経済再建策とその実施に対する支援体制が形成されないとなれば、インドネシアは対外排斥の道を選ぶおそれがある。そうなれば、この30年来培ってきたASEAN協力、APEC協力などに見られる積極的姿勢が後退せざるを得ない。そのときには国内の華人社会に対する排斥も強まり、一層の経済混乱の深化を招く。そうさせないためには、インドネシアを国際社会から孤立させてはならない。インドネシアに最大の援助を供与している日本は、物質的にも知的にも積極的な支援を行い、国際社会の対インドネシア支援強化にイニシアティブを発揮することが求められている。, 独立行政法人日本貿易振興機構 (法人番号 2010405003693) 4, … スハルト前大統領が支配体制を強化する道具として利用してきたイデオロギーは1945年憲法の前文にある建国五原則「パンチャシラ」である。すなわち、全知全能の神への信仰、公正にして善良な人道主義、インドネシアの統一、代表者間の協議による全会一致の叡知によって指導される民主主義、及び全インドネシア国民に対する社会正義である。スハルト政府は1978年にパンチャシラの理解と実践の指標を採択し、これに背くことは反逆として、強権支配のための政治的道具として利用してきた。国家転覆罪、大統領侮辱罪などはその法的表現であり、民主化の動きをことごとく封じてきた。現在、改革あるいは民主化の声が高まる中で、政治関連諸法の改正、政治犯の釈放や名誉回復、報道の自由化、結社の自由化などの要求が出ているのは、スハルト支配体制に対する批判と反動である。いずれはスハルトによる憲法とパンチャシラのねじ曲げがあったとして憲法解釈の是正があろう。しかし、憲法の改正などによる国体の変更はないであろう。その理由は、国軍が政治経済に関与することを正当化する「二重機能」を温存する必要性が高いからである。 インドネシア共産党をはじめとする国内の左派勢力を一掃し、スカルノと同様に、大統領に強大な権限を付与する1945年憲法体制を引き継いだスハルトであったが、政権初期には政治的ライバルが少なくな … インドネシア大統領として1960年代後半~90年代に開発独裁を展開。ASEAN結成などを主導したが、長期政権による政治の腐敗を招いた。 インドネシアの第2代大統領(1968~1998)。30 0000008061 00000 n などを検索できます, 各項目から研究者を 0000002660 00000 n 3-3. 0000033501 00000 n スポンサーリンク 0000000731 00000 n 57, No. 研究活動をご紹介, 各種レポートや出版物 0000004337 00000 n 検索できます, 研究所の概要や施設など 民主化の限界 いわゆるKKNの問題は32年に及ぶ長期政権下での強権的政治の副産物であり、民主化を望む国民の批判の的になったことは当然である。学生や知識人グループが民主化運動の中心であり、特に、3月以降のスハルト本人を直接批判する示威行動は政権交代の圧力になった。ただし、かかる民主化運動が統一的に組織化されていたかは疑問である。学生組織間のインターネットでの情報交換が活発であったことや大学教官の支援も目立ったが、彼らがスハルト退陣とKKN糾弾以外に具体的に何を主張したかについては明確ではない。事態をより複雑に見せる要因はアミン・ライス・ムハマディア議長をはじめとするイスラム指導者の影響が強く、民主化運動と宗教的正義感からくる改革運動が混在していたことである。こうした要因は民主化運動を表面的には高めたようだが、暴動の発生によって民主化運動は一次埋没した。この背景には、本来民主化運動を支えるべきインドネシアの中産階級の未成熟がある。一般的にはインドネシアの中産階級は人口の7%程度といわれ、そのうちの半数が政治的に無力化されている華人系インドネシア人である。ハビビ新政権になり、反政府活動家、東ティモール独立運動指導者などが次々に釈放され、政党結成の自由化、労働組合運動の自由化等、民主化政策が打ち出されている。これらは民主化運動の要請に応える措置であるが、国軍の政治路線の転換に促された結果でもある。ハビビ新政権がウィラント国軍司令官主導の国軍のバックアップによって成立したという現実は、体制内からの民主化があったことを意味する。それはハビビ大統領が言うように民主化ではなく「改革」であり、新内閣も3月に発足した第7次開発内閣を継承する「開発改革内閣」と定義づけられている。今後は国軍も開かれた政治路線を踏襲すると思われるが、国軍が権力の主要な担い手であり続けるのならば、民主化の方向には限界があろう。国軍が内からの自己改革をどこまでできるのかが、インドネシアの民主化を決定づける。 %PDF-1.3 %���� 0000004484 00000 n インドネシアのスハルト政権は,例外的な 長期安定型権威主義体制1)の一つの例として 挙げられる。 しかし,そのインドネシア.ス ハルト政権下でも,いくつかの反政府運動, ... 従来のインドネシア政治体制論と … 国際協調の維持が不可欠 政治的安定を達成し、早急な経済再建を成功させるためには国際的支援を取り付けることが肝要である。97年10月以降、430億ドルのIMFパッケージ支援の実施をめぐりIMFとの関係がぎくしゃくし、結果的に経済混乱を深化させてしまった。この背景にはIMFの政策介入の硬直性があったと言えるが、最悪の要因はスハルト政府の改革の意志がきわめて希薄だったことである。IMFが提示した丁子流通独占、合板カルテルなど独占的商慣行の撤廃を含む援助条件は、スハルト一族およびクローニーに対し特権の放棄を求めるものであり、スハルト政権には絶対にのめない条件であった。だがIMFにとっては、財政の透明性確保などとともに、スハルト一族らへの特権付与による歪みの是正が、インドネシア政府を信頼するための最低条件であった。政変の結果、スハルト一族の特権が一気に剥奪されたため、インドネシア及び国際社会の間の相互理解の第一条件はすでに整った。6月はじめには懸案であった約800億ドルの民間債務問題も3年据え置きで、4年から8年の返済期間延長が合意され、IMF融資の実施交渉も進められるようになった。昨年の1人あたり1300ドル強の国内総生産額が単純計算では200ドル台に落ちてしまった現段階での経済状況では楽観できないが、国際援助実施の再開期待から、経済再建にもようやく明るい方向が見えはじめている。 1-2. 0000002962 00000 n スハルト体制の崩壊とウィラント国軍司令官の役割 f���g��e����]�`u��ҁ�9���0b�6��=�/0נߘ��� �����I���3d4VU�n.��[�ۈ�J߇�g�c�K��[p�I���E>E�@�R����0��bQ���� �3������>YƗkz�� 第2に、民主化勢力が分裂状態にあることである。スハルト辞任の背景には3月以降に高まったスハルト前大統領、その親族及び取り巻きグループに対する、知識人・学生などの直接名指しの批判と退陣要求があった。それ以前のデモや暴動では対政府直接批判はあったが、スハルト個人に対する攻撃は初めてであった。スハルト氏にとってもこれは内心穏やかであったはずはない。しかし、この批判運動も連携的で、全国同時多発的ではあったが、必ずしも一定の戦略下で組織化されたものではない。指導的立場にあった、都市部の改革派であるムハマディア議長のアミン・ライス氏、農村部で影響力のあるナフダトゥール・ウラマ(NU)総裁のアブドル・ラフマン・ワヒド(通称グス・ドゥル)及びインドネシア民主党のメガワティ前総裁らの表向きの連携は見られたが、それは反スハルトで一致しただけのことで、スハルト後のそれぞれの政治的思惑は異なる。グス・ドゥルは比較的ハビビ新政府に対して肯定的な姿勢を示し、メガワティもアミン・ライスの急進的な民主化要請とは一線を画して、スハルトに対する性急な中傷を心痛いこととして退けている。ウィラント司令官もメガワティと同様の発言をしている。メガワティとしては過激な民主化運動がせっかくのスハルト退陣の成果を台無しにすることを懸念しているのであろう。グス・ドゥルは、これまで継続してきたNUの非政治団体路線を守り、NU内部の政党化運動を抑えたいところである。こうした不統一はハビビ新体制の背後にある国軍が、内からの改革路線を推進するにあたって、調整に時間を要するという結果をもたらすことになろう。また、急進改革グループの活動が再び暴発し、政治的に利用される最悪の可能性も想定しておかなければならない。, 2-1. ブログを報告する, 【インドネシア】国内感染者はいまだに増加傾向。ワクチン実用化は来年1月の予定。インドネシアの現在の状…, 【インドネシア】7日、コロナ感染者2000人超える。首都ジャカルタは再び国内最多。インドネシアの現在…, 【インドネシア】5月が終わる。コロナ感染者の数は!?PSBB(大規模社会制限)の効果は!?, 【インドネシア】コロナウイルス死者数1000人を超える。インドネシアの現在の状況。. 80 アジア研究 Vol. 482 0 obj << /Linearized 1 /O 484 /H [ 809 1484 ] /L 619521 /E 36907 /N 138 /T 609762 >> endobj xref 482 19 0000000016 00000 n google_ad_client = "ca-pub-8567821193067381"; 0000000809 00000 n スハルト 体制の構造や長期政権の理由を明らかにする研究,また体制末期から政権崩壊に至る 過程を論じる研究は,これまでにいくつも著されている。しかしながら,安定してい たはずの支配がもろくも崩れ去り,しかも体制移行が,クーデターや革命といった武 力を伴うものではなく,ス� 0000033248 00000 n なかでもタイ,インドネシア,韓国はきわめて大きな打撃を受けた。 ※百科事典マイペディア ※スハルト以降の大統領 ・第3代ハビヒ大統領(1998年~1999年) スハルト政権時の副大統領。 ・第4代ワヒド大統領(1999年~2001年) 高名な宗教指導者。 アジア経済研究所 ハーグ協定によりオランダがインドネシアの独立を承認。 1955年: バンドンで「アジア・アフリカ会議」開催。 1965年: 軍部と共産党との緊張の高まりを背景に「9月30日事件」が発生。翌1966年3月11日,スカルノ大統領は権限をスハルトに一部委譲。 1968年 急がなければならない信頼の回復 0000036176 00000 n 知恵蔵 - スハルト体制の用語解説 - スハルトは30年余にわたりインドネシアに独裁体制を敷いた。自らの体制を「新秩序」と呼び、「安定」と「開発」を国家課題に掲げ、強権支配を正当化しようとした(開発独裁)。半面、公私の区別はあいまいになり、腐敗・汚職がまんえん。 0000002451 00000 n 0000002293 00000 n 98年5月21日、スハルト前大統領は、ハビビ前副大統領に大統領職を委譲した。32年の安定政権はもろくも崩れ去り、スハルト氏は側近政治家及び親族もろとも政治、社会及び経済活動から一斉に退かねばならない状況に追いつめられた。スハルト失脚とともにハビビ副大統領も当然その職を解かれるとの下馬評であったが、大統領の交代を「1945年憲法」に則って行うという国軍の意向によって、ハビビ氏がかろうじてその政治生命を維持することができた。その背景としては、憲法上の規定ではハビビ氏以外に後継大統領の有資格者がいないということもあったが、実際には現在のインドネシア政治情勢を完全に把握できる人物が未だに登場していないということである。今回の政変の立役者ともいえるウィラント国軍司令官兼国防治安大臣は、スハルト後継者のダークホース的存在として早くから各界の期待がかけられてはいたが、同司令官が一挙に大統領に昇格するには時期尚早であった。その理由は、5月初旬の北スマトラの州都メダンにおける暴動、12—17日におけるジャカルタでの約1200人の犠牲者を伴った大暴動、その他全国各地での反政府デモなどが、ウィラント国軍司令官とスハルト氏の娘婿であるプラボウォ戦略予備軍(KOSTRAD)司令官を両雄とする国軍内部の対立があったことである。この対立は一応ウィラントグループに軍配が上がった。しかし、謀略によって暴動を誘発させた疑いがあり、21日に解任されたプラボウォKOSTRAD司令官に対する処遇は甘いもので、彼は陸軍中将の階級では名誉あるバンドンにある国軍士官学校校長に任命された。もちろん、このポストは直接の指揮権を発動できる実戦部隊を持たないため、プラボウォ本人にとっては不満であったと伝えられる。プラボウォ司令官が力の源泉とした特殊部隊(KOPASSUS)はKOSTRAD直轄からはずされ、組織編成上は陸軍参謀長の下に置かれ、その指揮権は国軍司令官が有することになった。しかし、プラボウォ中将と政治的に近いと言われていたファイサル・タンジュン現政治担当調整大臣はハビビ新内閣にとどまり、スバギオ陸軍参謀長、シャフリ・ジャヤ師団(ジャカルタ)司令官などの更迭が未だないことにも留意するべきである。 0000002701 00000 n �� d 2 "�{���l��/�ಸ�E������b{�Z��G�V�y�֤)�C|&�iRJZ?k6yN�&̀5��'+"��e�8�H╤�&rX�M8 ���FB���< ��?�wȇd7�-�A�#��[�"Q��}�j��>ƿ'�������/�clH���P)�(8���Z����Zt]��h��؆/���k����Gx} =�����`1ڎ�Q��(���gm�$� �~��%?E)�$���E��t�%i�.z,��&�Ck�u�o���ᔥ���ܟ5Zhi:�-���Y{�E�ƕ�~��6�����o�̪���ԬT4uj�3������[�ofi�M�t��Mg��榢% �*%-�C�0YZ����3�c��>YM���Z��)�%ۼ�䱿�F=Wݺۛek�t_��uor7R �\�X��9�X���>���>�����S5�Rc��>�����8��gޕz�{����&�pa�jӯ�S. をご覧になれます, 32年に及ぶインドネシアのスハルト政権が崩壊した。「開発の父」と讃えられたスハルト前大統領のインドネシア経済の開発は評価されるが、その長期政権そのものに腐敗、癒着及び縁者びいきに基づく制度疲労が生じ、その統治能力の再生は不可能になった。折しも、97年7月に発生したアジア通貨危機はインドネシアを最大の餌食とし、スハルト体制の開発の成果を台無しにしてしまった。ルピアの価値は1年間で6分の1に減価し、経済・金融システムは崩壊し、国民の2人に1人が経済的窮乏に陥った。強権体質で進めてきた開発体制はその内部から否定されたと言える。改革の主役はウィラント国軍司令官主導の国軍であり、その支持を背景にハビビ新政権が動き出した。新政権をいかに評価し、その方向を探ることが今後のインドネシアを理解する上で重要である。, 1-1. 新政権の基盤が固まりにくい原因はどこにあるのだろうか。第1に、最大の理由は権力の最大の担い手である国軍内の勢力バランスが流動的であることだ。ウィラント国軍司令官が、今後プラボウォグループの一掃に成功し、国軍の全権を掌握できるかどうかがキーポイントになろう。しかし、一層やっかいなことは、スハルト退陣と引き替えに、ハビビ擁立を条件としてウィラント国軍司令官に協力した軍人グループが存在する可能性があることだ。6月上旬の段階では国軍内主要ポストの人事異動が進んでおらず、ウィラント司令官の今後の人事権発動を注視する必要がある。この論拠は、ハルモコ国会議長のスハルト退陣勧告に対し、ウィラント司令官がそれを「個人的意見」と退け、スハルト追い落としを一時留保したのは、ハビビ擁立派の態度が明確でなかったことと、5月19日の時点でプラボウォ麾下のKOSTRADを掌握し切れていなかったと推測されることにある。この段階でことを急げば武力衝突の危険性もあったと思われる。しかし、ウィラント派は、20日のオランダに対する蜂起を記念する「民族覚醒の日」に予定された100万人規模の反政府集会を取りやめさせたことを通じプラボウォ派の力を完全に制圧すると、その夜の内にスハルトを退陣に追い込む条件を整備することができた。その過程で、ハビビ擁立派はプラボウォを見捨て、ウィラントへの協力に傾いたものと思われる。これを急がせた要因は、米国のオルブライト国務長官のスハルト辞任勧告を意味する「スハルト大統領は歴史に残る名誉を得る機会を得ている」という発言であった。勝ち馬に乗ることでスハルト一族とともに沈没船に残ることを避けるインドネシア特有の政治パフォーマンスがあったといえよう。これは国軍内の潜在的対立を残すことになった。

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