フィリップ2世 スペイン

フィリップ2世 ( Philippe II, 1165年 8月21日 - 1223年 7月14日 )は、 フランス ・ カペー朝 第7代の王(在位: 1180年 - 1223年)。 ルイ7世 と妃で シャンパーニュ伯 ティボー2世 の娘 アデル の子。� に異動。「ウェルプ」は第27駆逐艦隊の一隻で、インド洋方面へ向かいやがて終戦を迎えた。日本政府が降伏文書に調印した1945年9月2日には、「ウェルプ」は東京湾に停泊していた。終戦後の翌1946年1月にイギリス本国へ帰還する。, フランスに亡命していた父のアンドレアスは、フランスがドイツ軍に占領された後はヴィシー政権の監視下に置かれ、それ以降フィリップを含む家族の誰とも面会することなく、1944年にモナコで死去した。, ギリシャの枢軸国による占領は終わったが亡命生活は続き、帰国後の1947年2月イギリスに帰化(国籍取得)した。帰化した際、イギリスにおける軍務を継続するために母の実家の家名である「マウントバッテン」(Mountbatten、ギリシャ語名「Battenberg」を英語化したもの)を姓として選択した。これに伴いフィリップは、ギリシア正教会からイギリス国教会への改宗を行い、さらに形式上となっていた「ギリシャ王子及びデンマーク王子」の地位を「放棄」することを宣言した。, なお、1705年ソフィア帰化法(1948年英国帰化法により廃止)により、ハノーファー選帝侯妃ゾフィーの子孫であるフィリップは、生まれたときから英国籍を有している[5]。, 1947年7月9日に、イギリス国王ジョージ6世の第1王女で次期王位継承者であったエリザベスとの婚約が発表される。同年11月20日に、ロンドンのウェストミンスター寺院で結婚した。, 同日からRoyal Highness 「殿下」の敬称が与えられ、翌日には義父ジョージ6世からエディンバラ公爵、メリオネス伯爵とグリニッジ男爵の各爵位が授与された。結婚後の数カ月間をマルタで過ごした。, 結婚後も軍歴を重ね、1949年にフィリップは地中海艦隊第一水雷戦隊旗艦の駆逐艦「HMSチェッカーズ」の副長となる。1950年には海軍少佐に昇進し、スループ艦「HMSマグパイ(HMS_Magpie_(U82))」の艦長となる。, 1952年には海軍中佐に昇進した[6]が、同年2月6日にジョージ6世国王が死去し、妻であるエリザベス2世の女王即位により、「将来的には海軍提督に出世するであろう」と言われた輝かしい軍歴には終止符が打たれた。, 1952年2月6日に、妻のエリザベス王女がイギリス女王に即位した。1957年にエリザベス2世からPrince of the United Kingdomの称号を与えられ[1]、それ以降は、His Royal Highness The Prince Philip, Duke of Edinburgh(エディンバラ公フィリップ王配殿下[注釈 1])が正式な呼称となっている。, ヴィクトリア女王の夫アルバートとは異なり、共同統治者としての地位を示す「王配殿下(Prince Consort)[7]」の称号が与えられず、従って機密書類閲覧権もない。フィリップに王配殿下の称号を授与することを、ウィンストン・チャーチルが拒否したもの[8]。, 王朝名となる女王一家の姓は「ウィンザー(Windsor)」のままであり、フィリップの姓である「マウントバッテン(Mountbatten)」に変わらなかった。その後1960年に夫妻の子孫の姓を「マウントバッテン=ウィンザー(Mountbatten-Windsor)」とすることになったものの、フィリップの屈辱的な思いは残った。, 王配殿下の称号を得られなかったことはフィリップに屈折した心理を生み、不倫が報じられたほか、王子や王女たちにも悪影響を及ぼしたと言われる[9]。なお4人の子供達(3男1女)には父親として厳格な躾を施し、とりわけ長男のチャールズ王太子には将来の国王となるべく影響を与えた。, しかし王室の一員としての公務には献身的に取り組んだだけでなく、王室の改革、近代化に積極的で、初めて王室の日常をテレビジョンで公開するなど、王室と国民の関係を親密にすることに心を砕いた。なおこのような改革について義母のエリザベス王太后との確執があったが、後に沈静化した。, また南極大陸・南大西洋の訪問を機に自然保護への関心を深め、世界自然保護基金の初代総裁を務めた。また、イギリス国内のケンブリッジ大学やエディンバラ大学、ソルフォード大学などの総長なども務めている。, 1956年には「エディンバラ公賞」(The Duke of Edinburgh's Award)を設立し、優れた技能を持った世界各国の若者を表彰している。特に、自然保護に貢献のあった人物を表彰していることで有名である。, 1952年から2011年まで科学技術産業振興協会(王立技芸協会)会長を務めた[10]。, 2007年11月19日には結婚60周年を祝う祝賀行事が催された。イギリスの君主で結婚60周年を迎えるのは、エリザベス2世が史上初である。翌日からは新婚時代を過ごしたマルタを訪問した。, 長年海軍の実務より離れていたものの、フィリップの90歳の誕生日である2011年6月10日に、イギリス海軍の最高指揮官であるLord High Admiralに就任した[11]。, 2017年5月4日、同年8月中をもって、「一切の公務からの引退」を決断したことを発表[12][13][14][15]。同年8月2日にバッキンガム宮殿におけるイギリス海兵隊のパレードに参加し、単独の公務を全て終えた。しかし妻のエリザベス女王は引き続き公務を行う意向で、それに同伴する可能性は残されている[4]。11月20日に結婚70周年[16]。, 妻の女王エリザベス2世との間には、3男1女の4人の子女がいる。王位継承順位は2020年1月1日現在。, また1978年に日本の皇室に宛て送った「イリオモテヤマネコの保護を訴える手紙」の「付属報告書」の中に、「住民の島外退去」の提案などがあったため、西表島住民の強い反発を招いた。, 八幡和郎 『お世継ぎ-世界の王室・ 日本の皇室』 文春文庫、2007年、16-18頁、28頁。, なお、フィリップはそれ以前に妻のエリザベス2世に同行してイギリス女王夫妻で1975年(昭和50年)5月7日-12日に日本を訪問している。また、黒柳徹子もその期間中に東京都内の, シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブル=グリュックスブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルム, 英国王室公式サイト 『The Duke of Edinburgh - Honours』, http://www.yomiuri.co.jp/world/20170804-OYT1T50000.html, 英国王室公式サイト 『The Duke of Edinburgh - Naval career』, "Prince Philip (b.1921), HRH the Duke of Edinburgh", BBC News, 10th June 2011 『New title for Duke of Edinburgh as he turns 90』, An announcement regarding The Duke of Edinburgh, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=フィリップ_(エディンバラ公)&oldid=79994053, 「国民は、我々の生活にはもっと休みが必要だと言ってたくせに、今度は仕事がないなどと文句を言っている」(, 「どうやって免許取得試験中、スコットランド人は酒を飲まないようにするんですか?」(, 「このくそったれ!」(1997年相手がフィリップと気付かず、駐車違反の切符を切ろうとした, 「君はストリップクラブで働いてるの?」(2010年ナイトクラブでアルバイトをしている女性の海軍士官候補生に発言). 1957年にエリザベス2世からPrince of the United Kingdomの称号を与えられ 、それ以降は、His Royal Highness The Prince Philip, Duke of Edinburgh(エディンバラ公フィリップ王配殿下 )が正式な呼称と … フェリペ3世(Felipe III, 1578年 4月14日 - 1621年 3月31日)は、スペイン、ナポリ・シチリア、ポルトガルの王(在位:1598年 - 1621年)。 フェリペ2世と最後の妻である神聖ローマ皇帝 マクシミリアン2世の娘アナとの間に生まれた末子である。 ポルトガル王としてはフィリペ2世 エディンバラ公爵フィリップ王配[注釈 1](エディンバラこうしゃくフィリップおうはい、英:Prince Philip, Duke of Edinburgh、1921年6月10日 - )は、イギリスの王族。女王エリザベス2世の王配(夫/配偶者、Prince)。次期王位継承者・チャールズ王太子の実父。爵位・称号は Prince of the United Kingdom[1]、エディンバラ公爵、メリオネス伯爵、グリニッジ男爵、イギリス陸海空軍元帥、Lord High Admiral(海軍本部の長)、日本学士院名誉会員。敬称は His Royal Highness(殿下)。, 祖父にギリシャ王ゲオルギオス1世 、曾祖父にデンマーク王クリスチャン9世、高祖父にロシア皇帝ニコライ1世、高祖母にイギリス女王ヴィクトリアがいる。, イギリス海軍で第2次世界大戦に従軍後、当時即位前のエリザベス王女と結婚。妻の女王即位後は海軍を退役し、夫として長年女王を支えてきた。女王の公務の大半に夫妻で同伴、単独での海外訪問も143カ国637回に上り、公務は単独でも65年間で2万2千件以上行った。現在も785団体の会長や支援者を務める[2]。, 96歳と高齢になっていた2017年8月2日にバッキンガム宮殿でイギリス海兵隊を閲兵したのを最後に、全ての公務から引退した[3][4]。, ギリシャおよびデンマーク、ノルウェーの王家であるグリュックスブルク家(正式には、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク家)出身。ギリシャ王国の第2代国王ゲオルギオス1世の四男アンドレアスとバッテンベルク家(英語名:マウントバッテン家)出身のアリキ(英語名:アリス)の長男として誕生。ギリシャ語名フィリッポス(Φίλιππος)。ヴィクトリア英女王の玄孫であり、連合王国王位継承権を持つ(2012年2月現在第485位)。, 姉が4人おり全員がドイツ人男性と結婚。長姉マルガリタ(ホーエンローエ=ランゲンブルク侯妃)、次姉セオドラ(バーデン辺境伯夫人)、三姉セシリア(ヘッセン大公世子妃)、四姉ソフィア(ヘッセン=カッセル公子妃、ハノーファー王子妃)である。母方の叔母ルイーズはスウェーデン王グスタフ6世アドルフ妃。第2代ミルフォード・ヘイヴン侯爵ジョージ・マウントバッテンと第二次世界大戦の極東での対日戦争のビルマ戦線でその名を馳せた初代マウントバッテン・オブ・バーマ伯爵ルイス・マウントバッテンは母方の叔父にあたる。, フィリップは、父アンドレアスと同様「ギリシャ王子及びデンマーク王子(Prince of Greece and Denmark)」の称号を有していたが、エリザベス王女との結婚にあたりこれを放棄している。, ヴィクトリア女王 - アリス(ヘッセン大公妃) - ヴィクトリア(ミルフォード=ヘイヴン侯爵夫人) - アリス(アンドレアス王子妃) - フィリップ, 1921年6月10日、ギリシア王国のイオニア諸島のコルフ島(ケルキラ島)にある別荘の台所で、ギリシャ王子アンドレアスとアリキ妃の(1男4女の)末子(第5子)として生まれる。, 生後1年程してギリシャでクーデターが発生、ギリシャ国王コンスタンティノス1世は退位を余儀なくされ、ゲオルギオス2世が即位し、コンスタンティノス1世の弟である父アンドレアスは革命政府から死刑を宣告された。, それまでケルキラ島に滞在していた一家は、イギリスのジョージ5世の差し向けたイギリス海軍の軍艦によりギリシャを脱出した。なおその後1924年4月の国民投票により王制の廃止が決定、共和政への移行が決定された。, 一家はフランスのパリへと向かい、父の兄ゲオルギオス王子の妃マリー・ボナパルトの所有するパリ郊外サン=クルーの別荘に滞在し亡命生活を送った。家庭は円満でなかった。王子の座を失った父アンドレアスは次々と愛人を作り、家庭を省みない父は不在が多かった。夫の不貞に母アリキは精神を病み、南仏の病院に入院した。, 4人の姉達が結婚で実家から別離していくとフィリップは一人になった。1928年に渡英し、祖母ヴィクトリア、叔父ジョージ、ルイスとともに生活する。1933年からは、母の家と縁の深いドイツの南部にあるバーデンの学校へ転校する。1934年5月にはギリシアの王制復活が決定されたが、コンスタンティノス1世ではなくゲオルギオス2世が王位に復帰したため、帰国することは叶わなかった。, 1939年にイギリス海軍兵学校を卒業し、士官候補生としてイギリス海軍に入隊。第二次世界大戦に従軍した。1940年には戦艦「ラミリーズ」に乗艦し、インド洋で半年余り任務にあたった。なお同年に祖国のギリシアはイタリア軍の侵略を受け、ドイツ軍とイタリア軍、ブルガリア軍の枢軸国3国によって分割占領されることになった。, 1941年1月からは、戦艦「ヴァリアント」に乗艦し、地中海での任務にあたる。この年「ヴァリアント」は複数の海戦に参加しており、マタパン岬沖海戦でのフィリップの勇戦が認められ、ギリシア十字勲章(Greek War Cross)を受章した。, 1942年7月には海軍中尉に昇進し、駆逐艦「ウォーリス」で先任将校として勤務する。1943年7月の連合軍のシチリア上陸作戦を支援した。その後駆逐艦「ウェルプ」 中世のスペイン宮廷にうまれたカルロス2世。1661年11月6日にフェリペ4世とオーストリアのマリアナの息子として誕生しましたが、度重なる近親交配の影響を顕著にうけたために、『呪い』と宮廷中から恐れられ、またスペインハプスブルク家を断絶の運命を背負った人物でもありました。この記事では、現在残されている文献からカルロス2世の治世をみていきたいとおもいます。. フェリペ2世は、父から継承したスペイン、ネーデルラント、ナポリ、シチリアなどのヨーロッパ内の領地と、 アメリカ大陸 、アジアの フィリピン などの領土を支配し、その支配領域は広大であった。 独学で通訳になったNaaの1日5分で明日が変わるブログ 2020 All Rights Reserved. Copyright© スペイン宮廷にうまれたカルロス2世。度重なる近親交配の影響を顕著ににうけたために、『呪い』と宮廷中から恐れられ、またスペインハプスブルク家を断絶の運命を背負った人物でもありました。この記事では、現在残されている文献からカルロス2世の治世をみていきたいとおもいます。 バンクーバー留学後、現地貿易会社にてインターン。貿易職を5年、世界30カ国以上の取引に携わる。通信会社にて通訳、翻訳に従事。フリーの翻訳やイベンター、司会業など複数の職を持ち英会話スクールのカウンセラーを併任。ダーリンはアメリカ人、ゆるゆる仲良くやっています。, カルロス2世については多くの文献が作成されており、医学的に分析されたものも多く出版. スポンサーリンク , フィリップ2世(Philippe II, 1165年8月21日 - 1223年7月14日)は、フランス・カペー朝第7代の王(在位:1180年 - 1223年)。ルイ7世と妃でシャンパーニュ伯ティボー2世の娘アデルの子。フランス最初の偉大な王と評価され、尊厳王(オーギュスト、Auguste)と呼ばれた。, 父の死により15歳で即位し、当初は舅であるエノー伯ボードゥアン5世の摂政下にあったが、間もなく親政を始めた。エノー伯やシャンパーニュ伯などの強力な北部諸侯を抑え、婚姻政策によりヴァロワなどを得た。さらに、イングランド王家で欠地王ジョン王のフランス南部に広大な領地を有するプランタジネット家との抗争に勝利し、その大陸領土の大部分をフランス王領に併合した他、アルビジョア十字軍を利用して、王権をトゥールーズ、オーヴェルニュ、プロヴァンスといったフランス南東部から神聖ローマ帝国領にまで及ぼした。この結果、フランス王権は大いに強まり、フランスはヨーロッパ一の強国となった。, 1165年8月21日に、現在のフランス、ヴァル=ドワーズ県のゴネス(Gonesse)でルイ7世と3番目の妻アデル・ド・シャンパーニュの間に生まれた。ルイ7世の唯一の男子であったが、異母姉にマリー、アリス、マルグリット、アデルがいた。また同母妹にアニェスがいる。, フランス王家であるカペー家は、もとはパリ伯で、10世紀にカロリング朝が断絶すると選挙によってフランス王に選ばれたが、その支配地域は本領であるイル=ド=フランスと各地に散らばる若干の王領のみで、ノルマンディー公やフランドル伯といった有力諸侯と同程度の実権しか有していなかった。, 歴代の王は王権の強化を図ったが、ノルマンディー公がイングランド王を兼ねて強力な存在になると(ノルマン・コンクエスト)、これに対抗するのが精一杯で思うに任せなかった。父のルイ7世はアリエノール・ダキテーヌとの婚姻で一時はアキテーヌ公領を支配下に加えた。おりしもイングランドはスティーヴン王の無政府時代だったため、王権を回復する良い機会だったが、この好機を生かせず、却ってアリエノールを離縁し、ヘンリー2世と結婚させてしまい、イングランドから南フランスまでを領有する強大なアンジュー帝国を誕生させてしまった。, 長らくルイ7世には男子の跡継ぎもなく、このままプランタジネット家に併合されるかという時に誕生したのがフィリップ2世だった。幼いころは病弱で、一時期生命を危ぶまれる重病となり、父のルイ7世はヘンリー2世と戦争中だったにもかかわらず、聖トマス・ベケットの祠に病気治癒祈願するためイングランドへ渡ったほどだった。, 王位継承を確実とするため、フィリップ2世は14歳で共同統治王として戴冠し、1180年に父が亡くなると、わずか15歳で単独王として即位した。即位した年に西フランク王家だったカロリング家の血を引くフランドル伯フィリップの姪でエノー伯ボードゥアン5世の娘イザベル・ド・エノーと結婚し、間に王太子ルイが誕生することによりカペー家とカロリング家の結合を果たした。, 当初は摂政で舅にあたるボードゥアン5世や母の実家で異母姉の嫁ぎ先でもあったブロワ家の力が強かったが、間もなく彼らを抑えて親政を始めた。, 最大の問題は、前王時代から続くプランタジネット家との抗争であった。前王時代から、ヘンリー2世とその息子達が不仲なことを利用する方策が取られており、フィリップ2世もこの方策を受け継いだ。元々フィリップ2世とプランタジネット家の息子達とは兄弟のような関係であり(ルイ7世とアリエノールの間に生まれた共通の異母姉・異父姉を持つ)、特に四男のブルターニュ公ジョフロワ(ジェフリー)と親しく、一時は兄弟同様に過ごした。, 1186年にジョフロワが馬上槍試合で死去すると、今度はジョフロワの兄リチャードと親しくなった。1188年に再びヘンリー2世との戦争が始まると、リチャードに父への謀反を起こさせ、ヘンリー2世を死に追いやることに成功した。しかし、跡を継いだそのリチャード(リチャード1世、獅子心王)は手強い相手であり、当初は友好関係を継続させ、共に第3回十字軍に向かった。この際、2人は互いの領土に侵攻しないという約束を交わしたとされている。第3回十字軍は、神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世(赤髭王)、イングランド王国のリチャード1世、フランス王国のフィリップ2世という王侯同士がそろって参加した十字軍であったが、たがいに反目しあい、うまく連携することができなかった[1]。現実主義者であるフィリップ2世は十字軍に情熱を持たず、リチャード1世とも対立し、アッコンを陥落させると間もなく病気を理由にフランスに帰国している。この際、途中で教皇の元を訪れ、十字軍から脱退して帰国した理由を釈明した。, フランスへ戻ると間もなく、伝統的政策としてリチャード1世の弟ジョンの王位簒奪を扇動した。そしてノルマンディ各地を占領していった。そうしたジョンとフィリップの行動について報告を受けたリチャードは、サラディンとの間で和平を成立させ、急ぎ帰国の途についた。リチャードが途中オーストリアでレオポルト5世公に捕らえられると、解放を遅らせるよう身柄を預かった皇帝ハインリヒ6世に働きかけると共に、ジョンの簒奪を支援したが成功せず、やがてリチャード1世はハインリヒに莫大な身代金を支払い解放された。フィリップ2世は手紙でジョンに「気をつけろ、悪魔は解き放たれた」と知らせたという。, リチャード1世はイングランドに戻るとすぐにジョンを屈服させ、捕囚中にフィリップ2世に奪われたフランス領土(ヴェクサンなど)を回復すべくフランスに渡った。フィリップ2世はアキテーヌ公領の諸侯を扇動し、リチャードに対して反乱させるなどをして対抗するも、戦上手なリチャードにはかなわず、次々と領土を回復された。ことに1194年7月3日、ヴァンドーム地方フレトヴァルの戦いでは金庫や公文書まで捨ておいての逃走を強いられるほどの大敗を喫する。1196年のガイヨン条約ではジソールを除く占領地の全てをリチャードに返還した。しかし1199年にリチャードはアテキーヌ公領シャリュで戦死し、甥のブルターニュ公アルテュール1世(アーサー)との争いの中でジョンがイングランド王となった。, 1190年にイザベルが亡くなると、1193年にデンマーク王ヴァルデマー1世の娘インゲボルグと結婚したが、フィリップ2世は彼女が気に入らず[注釈 1]、間もなく離婚を宣言し、1196年にバイエルン貴族のアンデクス伯兼メラーノ公ベルトルト4世の娘アニェスと結婚した[注釈 2]。しかし、インゲボルグは離婚を認めず、フィリップ2世の結婚を重婚としてローマ教皇に訴えた。ローマ教皇ケレスティヌス3世はこの訴えを認め、フィリップ2世とアニェスとの結婚を無効とし、インゲボルグと死別しない内のフィリップ2世の再婚を禁止した。, フィリップ2世はこれに抵抗し、アニェスを妻とし続けたため、1198年に新教皇インノケンティウス3世はフィリップ2世を破門し、フランスを聖務停止とした[2]。それにより国内でミサも、洗礼も、結婚も、葬儀も行われなくなっため、埋葬されない遺体が墓地に並べられ、不衛生になり、伝染病が流行した。, 1201年になるとフィリップ2世は、イングランド王ジョンとの抗争においてローマ教皇の支持を必要としたため、教皇の要求に屈し、少なくともフィリップ2世は教皇を欺く目的で表面上アニェスと別れた。, しかし、アニェスは王に飽きられて捨てられたと思い込み、悲しみから病に罹る。失意の中、アニェスは間もなく3人目の子の難産により亡くなるが、フィリップ2世はその死因がインゲボルグにあるとし、インゲボルグをエタンプの城に幽閉した。, その後もフィリップ2世はインゲボルグとの離婚を望み、彼女を遠ざけていたが、デンマーク王やローマ教皇の要求により1213年に呼び戻し、王妃として処遇した。, フィリップ2世は教会の干渉に非常に不満で、サン=ドニの年代記によると「(自分が)イスラム教徒だったら良かった。ローマ教皇のいないサラディンがうらやましい」と述べたとされる。, 1200年にジョンが、既に婚約者のいたイザベラ・オブ・アングレームと結婚した時、婚約者だったユーグ・ド・リュジニャンはこれをフィリップ2世に訴えた。フィリップ2世はジョンを法廷に召喚し、これを拒否されるとジョンの全フランス領土の剥奪を宣言し、ノルマンディー以外のこれらの領土をブルターニュ公アルテュールに与え、アルテュールを支援してジョンと交戦した。1203年にジョンがアルテュールを捕らえ殺害すると、フランスの諸侯はジョンを見限り、ブルターニュを始めとしてノルマンディー、アンジュー、メーヌ、トゥレーヌ、ポワトゥーはほとんど抵抗せずにフィリップ2世に降伏した。ジョンの下に残ったのは、わずかにアキテーヌの中心地であるガスコーニュのみで、フィリップ2世は懸案だったプランタジネット家のフランス領土の大部分の回収に成功した。, その後もジョンは失地回復を目指してアンジュー、ポワトゥーに侵攻したが、これを撃退し、ロワール川以北を正式にフランス領とする条約を結んだ。, さらに1213年には、破門されたジョンに対し、ローマ教皇インノケンティウス3世の支援を受け、ジョンに不満なイングランド諸侯やウェールズ、アイルランドと呼応してイングランド侵攻を計画した。しかし、これを恐れたジョンがイングランドをローマ教皇に寄進し、教皇の封建臣下となったため、教皇はイングランド侵攻の支持を取り消し、計画は中止された。その後、イングランド侵攻に協力しなかったフランドル伯を攻めたが、イングランドの援軍により撃退された。, 翌1214年になるとジョンは、甥の神聖ローマ皇帝オットー4世やフランドル伯フェランと提携し、フランスを南北から挟撃する計画を立てた。ジョンがフランス南部に進撃すると同時にドイツ、フランドル軍がフランドルからフランスに侵入するというものであった。これに対しフィリップ2世は、王太子ルイを南部に派遣してジョンを抑え、自らはフランドルから進入する皇帝連合軍を迎え撃ち、ブーヴィーヌの戦いで勝利を収めた。この勝利により神聖ローマ帝国、イングランドに対して優位に立ち、プランタジネット家の旧領を確保すると共に、フランスの有力諸侯フランドル伯、ブローニュ伯を捕虜とし、王権をいっそう確実にした。, 1215年にジョンに不満を持つイングランド諸侯の要請により、王太子ルイのイングランド侵攻を認めるが、1216年にジョンが亡くなるとイングランド諸侯はジョンの息子のヘンリー3世を支持したため、ルイの即位は果たせなかった。, 内政ではパリの道路の舗装、城壁の建設、市場の設立などの整備を行い、父王時から続いているノートルダム大聖堂の建設を続け、パリ大学の創立に協力した。また、王領内にバイイ(国王代官)の制を確立させて支配機構を一新し、司法における王室法廷への上訴の道をひらき[3]、さらに都市(コミューン)を保護、育成し商業を振興させて官僚機構を整備して、コミューンを特殊な家臣「集合領主」として扱って、市民のフランス王国への帰属意識を高めさせた[3][注釈 3]。, 外交では神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家と同盟し、ハインリヒ6世の死後は弟のフィリップを支持した。1208年にフィリップが暗殺された後はハインリヒ6世の息子でフィリップの甥のフリードリヒ2世を支持し、オットー4世と対立した。十字軍には熱心でなく、ローマ教皇との関係はつかず離れずだった。, アルビジョア十字軍は1209年に始まったが、当初インノケンティウス3世からの参加要請は、イングランド王ジョンと神聖ローマ皇帝オットー4世の脅威を理由に断り、シモン・ド・モンフォールの指揮に任せている。フランス王家は歴史的にローマ教皇との関係は良かったが、フランス領内での教皇の影響が強くなりすぎるのも好ましくはなく、つかず離れずといった対応を取っていた。, しかし1214年のブーヴィーヌの戦いの勝利の後は、1216年から始まる南仏諸侯の反撃に苦戦する十字軍に王太子ルイを派遣し、介入するようになった。フィリップ2世の死後の1225年にアモーリ・ド・モンフォールから南仏の支配権を受け継ぎ、ルイ8世が十字軍を指揮してトゥールーズ、オーヴェルニュ、プロヴァンスへの王権の伸張に成功した。, フィリップは1223年7月14日にイヴリーヌ県のマント・ラ・ジョリで亡くなり、歴代のフランス王が眠るサン=ドニ大聖堂に埋葬された。後継として王太子ルイがルイ8世として即位した。, 懸案だったイングランド王家の大陸領土の大部分を回収し、北フランス諸侯の勢力を抑え、ブービーヌの戦いにより、神聖ローマ帝国、イングランドに対する優位を確立し、さらにアルビジョア十字軍を利用して南仏(ラングドック)やブルゴーニュにまで王権を及ぼす契機をつくった[注釈 4]。, 内政も都市の育成やパリの整備、パリ大学の設立などにより民衆の支持を得て、フランス国民としての統一意識を高め、以降1世紀にわたりヨーロッパにおけるフランスの優位を確立した。フランス王国最初の偉大な王と評価され、初代ローマ皇帝アウグストゥスにちなんで尊厳王(Auguste)と称される[注釈 5]。, フィリップ2世の姿と人となりについて、唯一知られている資料では、彼について以下のように記載している。, 「禿頭だが、堂々として凛々しく、がっしりした大柄な体躯で血色の良い陽気な顔をしている。気性は激しく、豪奢な暮らし、女性とワインを好む。味方には寛容だが、自分を不快にさせた者には出し惜しむ。戦術に精通しており、正しいと認められる信念を持ち、自分の決断に対して慎重かつ頑固である。幸運の寵児であるが、激しやすく落ち着きがない面を他者から恐れられていた。しかしながら、投獄した敵を死なせることは決してせず、自分の配下に置き、その鎮圧者であり、教会の援護者であり、支配者である自分を誇示することを好んでいた。」, 中世ヨーロッパの王の義務には、外敵に対する防衛、王国内の教会の保護、裁判義務があった。, フランスでは、せいなる「聖油入れ」「ユリの花」「王旗」がドイツの神聖ローマ皇帝に対する対抗の象徴であり、フィリップ2世はじめルイ9世、フィリップ4世はいずれも、一貫して「いとも敬虔なる王」たることを主張して、自己の王権を権威づけた。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=フィリップ2世_(フランス王)&oldid=78720772. (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 1665年にフィリップ4世が亡くなったとき、彼の息子のチャールズ2世はたった3歳でした。父の死後、カルロス2世はシチリアを含む、スペインのハプスブルク家のすべての所有物を継承したわけですが、幼くまた病弱で精神的な障害もみられたため、母マリアナが摂政をつとめました。その後の10年間は、母マリアナとチャールズの腹違いの兄であるファン・ホセとの権力闘争が続きました。, 1677年から1679年までは母マリアナの敵であるオーストリアのヨセフが、1685年まではメディナセリ公爵とオロペサ伯が統治しました。それは君主カルロスが大人になってもまともに歩くことすらできず、終始よだれをたらして教育を施すことが困難だったため、だといわれています。, 年頃になり18歳のカルロス2世は、オルレアン公の娘マリー・ルイーズと結婚しました。夫の容姿は妻がおびえるほどで、さらにカルロス2世は自分の結婚式に出席することすらできない状態だったため、代わりに、マリーのいとこであるルイアルマンド1世が代役を務めました。彼女は結婚式では、その美しさがもてはやされましたが、精神障害の夫との愛のない結婚生活のせいで憂鬱症に苦しみ、病的なまでに肥満したそうです。, 常軌を逸した夫に相当精神を消耗したのか、彼女はわずか26歳で急死。元々嫁ぐ前に写真をみて状況をきき、覚悟を決め泣きながら嫁いできたプリンセス、「子供ができなかったせいで義母マリアナに毒殺された」と根拠のない噂までもが流れかなしい最後でありました。, 2人目の王妃となったのは、プファルツ選帝侯フィリップの娘マリアナ・デ・ネオブルゴ。彼女もまた夫の奇行や、恐ろしい容姿に怯えて泣き出したという逸話が残っています。まるで人身御供のように差し出されたふたりのプリンセス。, チャールズ2世には妻のどちらとも子がなく、スペイン・オーストリア王朝の終焉につながる継承問題を引き起こした。多産の家系出身ということでカルロス2世の王妃に選ばれたのですが、2番目の王妃にも子供はできず、『スペイン王家の継承問題』は深刻化していったのでした。, フェリペ2世の頃に最盛期をもたらし『日の沈まぬ帝国』とよばれたスペインハプスブルク家でしたが、この頃はその面影はいっさいなく。父フェリペ4世の治世からつづく悲惨な経済状況と政治・社会的危機にくわえて、後継カルロス2世の無力さが重なりひどい状況となっていました。, スペイン、特にカスティーリャの危機的状況はますます深刻化し、デフレが続いて1680年には通貨が暴落、それに続くように経済活動が落ち込んでいきました。, 『政府の立派な役人』は役立たずでしたが、オロペサ伯だけが『減税と公共支出の抑制』という確固たる政策を追求しました。アラゴンと地中海地域では復興運動が起こりました。 16世紀後半フェリペ2世のもとで全盛期を迎えたスペイン帝国は、イギリスとの戦争、オランダの独立などが続き、国家財政の破綻を招き17世紀に急速に衰退していたのです。, また彼の治世中、フランスとの間に2つの戦争が起こっています。1684年にはフランスとの間で20年間の休戦協定が結ばれましたが、1690年にスペイン、イギリス、オランダ、帝国の間で同盟が締結されて休戦協定は破棄され、1697年まで続く第三次戦争に突入しました。ようやく1697年にレイスウェイク条約が結ばれて戦争は終結。『陳は国家なり』で知られたるルイ14世の外交政策の最初の深刻な敗北を喫して、スペインにカタルーニャを与えることを余儀なくされたのでした。, カルロス2世の晩年は、継承権の争いに特徴づけられます。『王位とその多大なる遺産』を奪おうとする闘争が激化したのです。後継者を迎える必要から、バイエルン公子ヨーゼフ・フェルディナント(母方の叔父の神聖ローマ皇帝レオポルト1世と同母姉マルガリータ・テレサの孫)が後継者に推薦されましたが、翌1699年に夭折。, スペイン王位をアンジュー公フィリップ (母方のいとこ)に譲ると表明して、1700年カルロス2世は亡くなり、スペイン・ハプスブルク家は断絶しました。『生まれた時から死に頻していた』といわれたカルロス2世ですが享年38歳。宮廷の誰もが想像できなかった、長き人生でありました。これにてスペイン・ハプスブルク家に呪いをもたらした、『高貴な青い血』も途絶えることとなりました。, 『怖い絵』としても、『ラス・メニーナス』に描かれたマルガリータ (姉) とあわせて取り上げられるカルロス2世。カルロス2世は生涯を通じて体調が悪かったといわれています。これはおそらく、ハプスブルク家がよく知られていた近親交配のせいであり、彼は30代になるまでにはげ始めていたし、宮殿では老人に見えたという話も残っています。彼はまた幻覚を持っていました。宮廷は彼がこれ以上長く生きることはないだろうと思ってはいましたが、彼は38歳まで生き存えました。高貴な青い血がみせた最後のねばりだったのかもしれません。, 親族との結婚は、遺伝子が互いにどのように相互作用するかにより、子供たちに遺伝的問題を引き起こします。通常、一方の親が欠損している遺伝子を与えると、もう一方の親の対応する遺伝子がそれを跳ね除けるのです。しかし、近交系の子供たちは、両親から同じ遺伝子を受け継ぐことがよくあります。しかしカルロス2世の遺伝子の25%は重複でした。つまり、彼の遺伝子の4分の1は両方の親から同じものが受け継がれていたのです。これは劣性遺伝子が顕著にあらわれた例だとして、医学的にも色々な調査がなされました。, スペイン・ハプスブルク家最後の王カルロス2世は、先天的に虚弱かつ心身に異常が見られ、後継者を望める状態にはありませんでした。したがって、スペイン王家の断絶は、カルロス2世の生存中から確実視されていました。それを察していち早く根回しを進めていたのがフランス。, 2月 フランスのルイ14世は、パリ高等法院に『スペイン王位継承権執行』を命令しました。以後、スペインは『スペイン・ブルボン朝』が統治をすることとなり、かくして現在のフェリペ6世まで続くスペイン王家が誕生したのでした。, 5代目だったカルロスがこのような運命を背負うことになったのは、前王たちが「なんとかして我々の血を守らなくては」と奮闘した結果でありました。それが結果として多くの血族結婚を生み出し、濃すぎる血の影響をいってに引き受けたのがカルロス2世でした。, もはや子供が作れない状態まで近親婚の影響がでていたにもかかわらず、地位を保持するために彼をなんとかして生き長らえさせたスペイン宮廷。「とにかく長く生きてさえくれれば」と、教育を施すことすらサジを投げたといいます。カルロス2世については多くの文献が作成されており、医学的に分析されたものも多く出版されています。そちらについては (【スペインハプスブルク家の黒い歴史】カルロス2世の解剖所見) にまとめておりますので、興味がありましたら歴史に学ぶためにもどうか参考になさってください。.

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