二ノ国 ハル

二ノ国2の人材「ハルキュオナ」のスカウト方法(加入条件)とスキル「農園イロドリ術」の詳細を掲載している。キングダムモードの攻略や人材のコンプリートの参考にしてほしい。 )という言葉を引き合いに出して一般的諒解案を作る意向を示し、日中の和平問題についても「米国としては介入(intervene)も調停(mediate)もしない。外交用語にあるかは知らないが紹介(introduce)ということにしたい。双方を引き合わせるだけで話の内容に立ち入る必要はない」旨を述べた[303]。三国同盟の参戦義務については、来栖は「日本独自の立場で決めるということは、決してドイツの言いなりになって米国の背後をおびやかすということではない。日米間の了解が成立すれば三国同盟は自然に光を奪われる(out shine)ようになる」として理解を求めた[303]。この会談で来栖は交渉の前途に希望を持ったというが、ハルの記録によれば、大統領は両大使の訴えを軽く受け流し、会談の成果はなかったと記されている[303]。, 11月18日、甲案交渉が不調のため、野村は根本問題を限られた時間で解決することは困難なこと、情勢は極めて緊迫していることを説き、独断で「日本は仏印南部より撤兵に対し、米国は凍結令を撤去す。…其の上にて更に話を進むることと致した度し」と申し入れた[304]。これは東郷の訓令を待って提示することになっていた乙案を狭めた私案であり、来栖大使は「出先としては思ひ切った提案であるが、自分もかねてから同意見であるし、現地の空気及び野村大使の立場及び心境としては寧ろ当然といひ得ること」[305]としている。ハルはなかなか承服しなかったが、日本が平和政策を明確にすることを条件に検討を約した[306][307]。, 11月18日夜、野村と来栖はウォーカー郵政長官を訪問。ウォーカーは大統領及び大多数の閣僚は日米諒解に賛成であること、日本が仏印撤兵など現実の行動で平和的意図を示せば、アメリカの石油供給もあることを述べたという[308][307]。19日には某閣僚の旨を受けたウォルシュ司教が大使館を訪れ、日本が今日にも仏印撤兵の意図を表明すれば、ハルは即座に石油輸出を約束し、これをきっかけに急速に問題を解決したい意向との情報が伝えられた[308]。またこの日、野村・来栖と会談したハルの対応も好意的だったという[307]。, しかし、11月20日発の公電で東郷外相はアメリカがさらに煩雑なる条件を持ち出してくる余地があること、我が国の国内情勢では乙案程度の解決案を必要とすることを述べ、「貴大使ガ当方ト事前ノ打合セナク貴電報腹案ヲ提示セラレタルハ国内ノ機微ナル事情ニ顧ミ遺憾トスル所ニシテ却テ交渉ノ遷延乃至不成立ニ導クモノト云フ外ハナシ」として野村の私案提示を叱責するとともに、日本の最終案である乙案の提示を指示した[309][310]。, 現在の研究でも、野村の私案提示は「明らかに越権行為であった」[311]、「日本の譲歩を最大限のものに見せようとした東郷の努力を結果的に水泡に帰すものであった」[312]という指摘がある。, 東郷外相は11月4日の乙案打電から20日の乙案交渉開始の訓電まで、幾度となく乙案の修正を指示していた[313]。その間、備考一の仏印からの撤兵は第5項に、備考ニの通商無差別待遇と三国条約はそれぞれ第6項と第7項となったが、最終的には第5項に南部仏印撤兵の項目を追加挿入し、第6項と第7項は削除した[313]。交渉開始にあたり、東郷は南部仏印からの撤兵は極めて重要な譲歩であること、中国からの撤兵及び通商無差別待遇と三国条約の懸案三問題を棚上げして緊迫した空気を緩和していることの二点をアメリカ側に強調するよう野村に指示した[313]。, 11月20日(米時間)、野村と来栖は乙案をハルに提示した(実際にアメリカ側に提示された乙案では、野村・来栖の独断により第5項を第2項へと移動し、条項の順番が入れ替えられている[313])。, 乙案についてハルは援蔣の停止(第5項)に強い難色を示した[314]。ハルは、アメリカはドイツの征服政策に対抗してイギリスを援助している、日本の政策が確然と平和政策とならざる限り、援蔣政策と援英政策は同一であるとして「援蔣政策を変更することは困難」であるとした[314][315]。そして、会談の最後にハルは沈痛な面持ちで乙案を「同情的に検討する」と述べたという[314][315]。ハルは乙案の内容よりも、それがアメリカにとって「最後通牒」であったことであった点に苦慮しており、日本との間になんらかの暫定協定案を結ばない限り、開戦になるかもしれないという最終的な選択を迫られていた[316]。, 一方、乙案の決定以降、参謀本部は交渉成立を恐れ一喜一憂していたが(『機密戦争日誌』には「来栖の飛行機墜落を祈る者あり」(11月10日))、「乙案成立を恐る」(13日)、「援蔣停止の要求により交渉は決裂すべきこと最早疑を容れず」(20日)などの記述がある)、ハルの難色が伝えられるや「之にて交渉愈々決裂すべし芽出度々々々」(21日)と喜んだ[317]。, 援蔣の停止は乙案交渉のネックとなったが、これについて東郷は、アメリカの橋渡しで日中和平交渉が開始されれば援蔣政策は不要になるではないか、と問題を先送りする論法で理解を求めている(11月24日、グルー駐日アメリカ大使との会談において)[318]。, なお、25日までの交渉期限は、22日発の東郷外相からの訓電により29日までに延長された[319]。この訓電には「右期日は此以上の変更は絶対不可能にして其後の情勢は自動的に進展する」とあったが、言うまでもなくアメリカ側は「マジック」により解読済みであった[319]。, アメリカ側でも日本の甲案に相当する基礎協定案、乙案に相当する暫定協定案が検討された。基礎協定案はモーゲンソー財務長官による私案が叩き台になっており[320]、暫定協定案はフィリピン防衛の遅れをカバーするための時間稼ぎを求める軍部の要請に応えるものであった[321]。基礎協定案は、暫定協定案につけ加える恒久的な協定という位置付けとなっている[322]。国務省で基礎協定案と暫定協定案が作成されたのは11月22日であるが、最終的には暫定協定案が放棄され、基礎協定案のみがハル・ノートとして日本に提示されることになる[323][321]。なお、アメリカの対日回答は、あくまで暫定協定案と基礎協定案の二部構成であり、暫定協定案のみを渡すという議論はなかった[324]。, 11月11日に国務省極東部は対日協定案を作成し、ハル国務長官に提出したが、これは具体性に欠けたものであった[320]。一方、11月17日にモーゲンソー財務長官が国務省の頭越しに、対日協定案を私案として直接大統領に提出した[320](この私案は、ソ連のスパイである[325]財務省特別補佐官ハリー・ホワイトが作成したものであった[320])。モーゲンソー私案は極東部の試案よりも軍事、経済問題でより具体的であったため、こちらが検討対象となった[320]。ハルはモーゲンソーを不快に思ったが、私案には良い点もあったので国務省案に取り入れられたと回想している[322]。, モーゲンソー私案の題は「日本との緊張を除去しドイツを確実に敗北させる課題へのアプローチ」で全体で三部、内容は以下の通りであった[326]。, 第四部ではこの協定の利点として、アメリカにとっては太平洋艦隊を他の地域へ向けることでドイツに対して連合国の地位を飛躍的に強化できること、対日戦を回避できることなどが挙げられた[327]。また日本にとっての利点は、深刻な戦争および終局の敗北に直面せずに平和を確保できること、日本の再建や満州建設にその勢力や資本を充当できることなどが挙げられた[327]。, しかし、国務省極東部で検討・修正が重ねられた結果、日本軍の(少数師団の)満州駐兵を認める項目、太平洋の米海軍力の削減、「1924年排日移民法」の廃止を議会に請願する、日本への20億ドルの借款などの融和的な項目は削除された[328]。モーゲンソー案から基礎協定案(ハル・ノート)に受け継がれたのは、中国及び仏印からの全面撤退などの非妥協的な項目であった[329]。, また、三国同盟については、11月22日基礎協定案で「日独伊三国条約の各条項は、日本により太平洋地域における平和維持に関する紛争に対して適用なきものと解釈すべきことに同意する」との項目が付け加えられた[330]。最終案においては抽象的な表現になったものの、「三国同盟からの事実上の離脱を明文化」[331]したものであった。, なお、11月22日の基礎協定案では、日本軍の全面撤兵の項目には「中国(満州を除く)」との明記があり、モーゲンソー案第3項は「日中両政府に対して、満州の将来の地位に関し平和的交渉に入るべく示唆すること」との表現となって取り入れられていた[332]。しかし、最終案では満州問題の平和的交渉を示唆する項目は削除され、さらに「(満州を除く)」という文言も削除された[332]。, 11月22日にハルは、イギリス大使ハリファックス、オーストラリア公使カセイ、オランダ公使ロウドン、中華民国大使胡適を招き、暫定協定案を説明した[333]。, この暫定協定案では、日本軍の北部仏印在留兵力は2万5千を限度とする項目があり、一時的とはいえ日本軍の仏印駐留を認めたものであったが、他はハル四原則を具体的に守るというものであった[333]。, 胡適はやや平静さを失いつつも「これは向こう三ヶ月間、これ以上中国を侵略しないよう日本を縛るものか」とハルに問い質したが、ハルは「そうではない」と回答している[333]。, ハルは交渉成立の見込みは三分の一と語ったものの、会談終了後に改めて英・豪・蘭の大・公使に対し、日本に供給可能な物資の上限を決定する権限を本国から取り付けるよう要請した[335]。これは交渉の最終局面で、各国が日本に供給可能な物資の量をいちいち本国に照会していては、交渉がまとまらなくなる恐れがあったからである[335]。, 11月24日、国務省はさらに修正した暫定協定案と基礎協定案を作成した[336]。11月24日暫定協定案では、特に通商問題に関して細かく言及され、また協定の有効期限は平和解決の目途がつけば延長を協議できる、と付け加えられた[337]。, ハルは再び英・豪・蘭・中の大・公使と協議したが、胡適中国大使は北部仏印への日本軍駐留に反対した[338]。ハルは「2万5千の兵力は脅威ではない」と反論し、「この臨時的合意が必要なのは、わが陸海軍にとって時間が重要な問題であること、また一層の準備が必要なため」と説明した[338]。胡適は5千に引き下げるべきだと強く主張したが[338]、ハルは倍の5万でも脅威ではないと冷淡であった[339]。, この会談の段階では、オランダ政府以外は22日暫定協定案に対する訓令を与えておらず、ハルを立腹させた[340]。ハルは、この問題でより利害があるのはアメリカではなく関係諸国であり、各国政府が現在の状況がいかなるものか熟知していないと不満を述べ、「これら予想されなかった発展、関心の欠如及び協力せんとする意向の欠如には、決定的に失望した」と会談の模様を記した[340]。, この日、ハルはチャーチル英首相宛に乙案と暫定協定案を知らせる電報を送った。電報には、暫定協定案を日本に対する公正な提案としつつも、日本が受諾する可能性はあまりないとするルーズベルト大統領の追記が添えられていた[341]。, 蔣介石は、暫定協定案を知った時の心情を「不安と怒りが心のなかを激しく交錯した」「我々の国は、この絶体絶命の危機から生還することができるだろうか」と日記に記した[342]。そして、ワシントンの胡適大使に「アメリカを日本と妥協させてはならない。それは中国の死を意味する」と厳命した[342]。, また、蔣介石は重慶にいた顧問のオーウェン・ラティモアに暫定協定案反対を依頼した[343]。ラティモアからは、日本への経済制裁解除は、中国にとって日本の軍事的優位を危険なほど増大させ、いかなる暫定協定案も中国の対米信頼に対して悪影響を及ぼすもので、このときに見捨てられたとする感情は過去の支持や将来の援助の増額によっても償いえるかどうか疑問である、という報告がなされた[343]。, 蔣介石は宋子文に対しても、11月25日にヘンリー・スティムソン陸軍長官とフランク・ノックス海軍長官に伝えるよう指示して、対日制裁の緩和があれば、中国人民はみな犠牲にされたと思うだろうし、こうして世界におけるもっとも悲劇的な時代が開かれ、中国陸軍は崩壊し、日本の計画は遂行され、ひとり中国にとっての損失に留まらない、との電報を寄せた[343]。, ハルはこのような中国の反対攻勢に憤慨し、「蔣介石が、我が国の閣僚数名、国務省以外の政府機関の職員多数等に対し、おびただしい数の電報メッセージを送り付け、時としては大統領すら無視し、問題の真相に接していないにもかかわらず、微妙かつ重大な問題にまで介入することがあった」(ハリファックス英国大使に対して)と非難していた[343]。, 暫定協定案が日本に提示されなかったのは中国の猛烈な反対があったためという指摘もあるが[344]、ハルは中国の抗議をさほど重視していなかった[345]。また、モーゲンソー財務長官によれば、ルーズベルト大統領が中国の反対に対して「自分が彼らを黙らせてやる」とハルに向かって発言していたという[345]。, 11月25日に、22日案と24日案をまとめて整理した暫定協定案の最終案ができあがった[346]。政府内で異議が出るたびに融和的な内容は骨抜きとなり[328]、特に日本が切望していた石油の供給については「民需用の石油」のみに限定された[347][348][349][350][注釈 36]。ハルは「暫定協定が日本に与えるものは非常に限定された量の棉花、石油と若干の物資供給という極めて僅かな『雛の餌』にすぎなかった」と表現している[352]。, また、最終案ではアメリカが日本軍の仏印駐留を容認したと誤解されることを懸念したため、北部仏印に残留する日本軍の兵力量の具体的な数字(2万5千人)は削除され、1941年7月26日の兵力という文言のみが残された[353]。, 暫定協定案について、イギリスは「ハルが最善の方法というなら支持してもいい」と賛成に回り(ただし、日本への石油輸出再開には疑問符をつけた)、オランダは日本の軍事潜在力を増大させない限度の石油供給を条件に付して賛成した[354]。また、オーストラリア公使カセイは本国に「乙案それ自体受諾し難いにせよ、修正を施すならば全関係国にとって受諾しうるものとなしうるであろう」と具申し、本国から会談決裂阻止の訓令を受けていた[355]。, スティムソン陸軍長官は日記に11月25日を「今日は実に多忙な日であった」として、以下の出来事を記している[356]。, 一つは、ノックス海軍長官とともにハルと三人で会談した模様で、暫定協定案最終案について次のようにある(25日朝)。, 二つ目は、ホワイトハウスでの会議の内容で、対日関係についての討議である(25日正午)。, しかし、実際の報告書には「十隻ないし三十隻からなる船団」、兵力は「五万を意味する可能性もあるが、より少数の可能性が大きい」とあり、情報部は日本政府とヴィシー政府との協定に基づく「通常の行動」と判断していた[358]。この情報は日本軍の特別な移動を伝えるものではないが、スティムソン日記の記述では数が大きく膨らんでおり、スティムソンがルーズベルトやハルに内容を正確に伝えたのか疑問が残る[358]。, 11月25日午後、ハルは国務省の会議に参加していたが、列席していたハーバート・ファイス(国務省顧問)によれば、会議の最中にハルが何度も外部からの電話で呼び出され、電話の相手は誰かわからないが、電話の後にハルは暫定協定案に消極的な態度をとるようになったという(ファイスは電話の相手を「大統領であったかもしれないし、日本の軍部の行動の最近の情報提供者であったかもしれない」と推定している)[359]。ただし、この会議では、ハルは暫定協定案の放棄を言明しなかった[359]。, しかし、26日早朝になると、ハルはスティムソンに電話をして、「あの提案(暫定協定案)をすべてご破算にし、しかも、そのほかには提議することは何もないと通告する決意を固めた」と伝えている[360](これは後日、ハルがオランダ公使の質問に答えて、暫定協定案の放棄を決意したのは11月26日早朝だったと説明したことと符合する[361])。, この電話の直後、スティムソンはルーズベルトに電話をかけ、昨日の陸軍情報部の報告の写しを受け取ったかどうか尋ね、日本軍南下のニュースを伝えた[360]。スティムソン日記によると、写しはルーズベルトのもとに届いておらず、「大統領はすっかり興奮し、烈火のごとく立腹した。…日本側は中国からの全面撤兵を含む全般休戦の交渉をしていながら、他方では、インドシナに向って遠征軍を送ろうとしていることは、日本が全然信用できない何よりの証拠であるから、いまや情勢はすっかり変ってしまった、と述べた」とある[360][362]。, スティムソンは日本軍の動向について、日記にあるようなオーバーな言い方をしたのではないかと見られている[363]。またルーズベルトの方も、以前から南方の日本軍に対する資材や兵員の輸送が行われていたことを承知していたはずで、今回の日本とヴィシー政府の協定に基づく「通常の行動」になぜ「烈火のごとく立腹した」のか不明である[363]。, 一方、ハルは26日午前、ルーズベルトに対して、アメリカの対日回答から暫定的協定案を削除して、基礎協定案のみを野村・来栖両大使に手交することを具申し、承認を得た[364]。, しかし、中国の反対は事実であったが、それ以外の国の対応については事実ではなく、「これ以上の反対の、なお広がる可能性」も内容が不明である[365]。また、戦後に行われた真珠湾攻撃に対する米国上下両院合同調査委員会におけるハルの証言では、大統領と「どんな会話を交わしたか、何も思い出せない」としており[366]、暫定協定案が放棄された経緯は明確ではない。, なお、ハルの回想録によると、中国の反対及び日本と暫定協定を進めることが中国の戦意を崩壊させる危険性を考慮して、暫定協定案を放棄したような記述となっている[367]。, 1941年11月26日(アメリカ現地時間16時45分から18時45分、日本時間11月27日6時45分から8時45分)に行われた野村・来栖-ハル会談で、ハルは日本側の最終打開案である乙案に対する拒否の回答を伝え、ハル・ノートを手交した[1]。, なお、暫定協定案の放棄及びハル・ノートの提示は、陸海軍の長官にも知らされておらず、関係国との協議もなかった[368]。, 冒頭に「厳秘 一時的且拘束力ナシ」 (Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)との記載がある。, 第一項「政策に関する相互宣言案」にはハル四原則が書かれ、第二項には10項目から成る具体的措置が示されている。, 附属のオーラルステートメントでは、ハル・ノートは「太平洋全地域に亙る広汎乍ら簡単なる解決の一案」「六月二十一日附米国案と九月二十五日附日本案の懸隔を調整」と説明されているが、実際には日本側の要望はすべて無視したものであった[369]。6月21日付米国案では、日中和平の条件として日本の立場に理解を示す文言(共産主義運動に対する防衛のための日本軍の中国駐兵を今後の検討対象とする、「満州国に関する友誼的交渉」といった項目)もあったが、ハル・ノートは条件をつり上げたことになる[370]。, ハル・ノートを受け取った野村・来栖両大使は難色を示してハル国務長官と応酬したが、ハルは「何れも立ち入つては何等説明も主張もしない。全体の態度が殆ど問答無用といった風で、俗にいう取り付く島のない有様であった」[371]という。, 来栖は、多辺的不可侵条約の締結(第二項1)について「(日本に)ワシントン会議以来の苦い経験があるにも拘らず、又々九カ国条約と同じような機構を復活せよというのは、過去四年間の日華事変を全然無視せよということになる」と反対したが、ハルは何等力強い反駁を加えることをしなかった[371]。, 第二項3の全面撤兵及び第二項4の重慶政府以外不支持については「出来ない相談で、米国が蔣政権を見殺しに出来ないと同様、日本は南京政府を見殺しにする訳にはゆかぬ」と言うと、ハルは「南京政府は到底中国を統治する能力なし」と応酬し、撤兵については「即時撤兵を主張するものではない」と述べた[371][372]。, 日本側が「三国条約の問題に至りては米国は日本をして出来得るだけの譲歩を為さしめんことを希望せられつつある一方、支那問題に対しては殆ど当方をして重慶に謝罪せよと称せらるるに等く」、先日ルーズベルト大統領が日中和平の『紹介』をしたいと述べたのはまさかこのような趣旨だとは思わなかったと抗議すると、ハルは黙して答えなかったという[373]。, なお、暫定協定について来栖が問い質すと、ハルはその問題の可能性は探求済みである、探求には最善を尽くしたとだけ答えた[374]。, 会談の最後に、来栖はこのノートをこのまま政府に伝達するのは深い疑念があるとまでいい、野村は米国としてはこの案の外考慮の余地なしかとして、ハルに大統領との会談を要請した[375][372]。, 11月27日(米時間)、野村・来栖両大使と会見したルーズベルト大統領は、態度は明朗だが案を再考する余地はまったくないように思われたという[376]。, ルーズベルトは「自分は今尚大いに平和を望み、希望を有している」と述べたが、野村の「今回の貴国側提案は日本を失望させるべし」との言に対しては、「自分も事態がここまでに至ったのはまことに失望している」と応じた[377]。さらに「日本の南部仏印進駐により第一回の冷水を浴びせられ、今度はまた第二回の冷水(日本のタイ進駐の噂)の懸念もある」「ハルと貴大使等の会談中、日本の指導者より何ら平和的な言葉を聞かなかったのは交渉を非常に困難にした」「暫定協定も日米両国の根本的主義方針が一致しない限り、一時的解決も結局無効に帰する」と述べた[377]。, 同席していたハルも暫定協定が不成功になった理由について「日本が仏印に増兵し、三国同盟を振りかざしつつ、米国に対して石油の供給を求められるが、それは米国世論の承服せざる所である」と付言し、日本の指導者が力による新秩序建設を主張したことを遺憾とした[377]。, 暫定協定案の放棄とハル・ノートの提示について、11月27日付の『スティムソン日記』には次のようにある。, 27日、ルーズベルト大統領は、現地指揮官に「最後的警戒命令」を発出するというスティムソン陸軍長官の提議に同意した[379]。まずフィリピン、ハワイ等の陸軍司令官に「対日交渉は、日本が再び会談継続を提案する可能性だけを残して、すべての実質的目的を終えた。日本の将来の行動は予断できないが敵対行動はいつおこるかわからない」との警戒命令が出され、次いで太平洋艦隊及びアジア艦隊に対しては「日米交渉はすでに終わり、日本の侵略的行動がここ数日以内に予想される」との「戦争警告」が発せられた[379]。, さらに28日の軍事会議では、日本軍の南進について議論があり、特に日本軍がクラ地峡に進出すればイギリスは戦うであろうこと、もしイギリスが戦えばアメリカも参戦せねばなるまいということで意見が一致した[378]。, 29日、ハルはハリファックス駐米イギリス大使に次のように告げた。「日米関係の外交部門は終わった。今や問題は陸海軍の手に移った。私の意見では、今や全面的に更新された日本の征服計画は、多分のるかそるかの賭けだろうから、極度の大胆さと冒険を必要とするに違いない。…彼らは独ソ戦の成り行きにはたいして注意を払わずに、死に物狂いに企図を進めるだろう」[380]。, 暫定協定案の放棄は中国以外の関係国を驚かせ、27日にはハリファックス駐米イギリス大使がウェルズ国務次官に抗議した[381]。しかし、ウェルズが日本軍の大部隊が南下している情報を伝えると、ハリファックスも納得したという[345]。また、29日にはカセイ駐米オーストラリア公使が日米間の調停を申し出たが、ハルは外交上の段階は過ぎたと拒否している[382][381]。, 野村大使の第一報(ハル・ノートの要旨報告)、在米武官からの要旨報告電報が相前後して日本に届いたのは27日の午後とされる[383]。東條首相及び東郷外相の回想を総合すると、野村や在米武官からの報告を受け、午後2時の連絡会議でこれを審議したという[384]。東條は審議の結論を「11月26日の覚え書きは明らかに日本に対する最後通牒である」「この覚書は我国としては受諾することは出来ない。且米国は右条項は日本は受諾し得ざることを知ってこれを通知して来ている」「米国側においては既に対日戦争を決意しているものの如くである」と回想しており、また東郷は出席者の様子を「各員総て米国の強硬態度に驚いた。軍の一部の主戦論者は之でほっとした気持ちがあったらしいが、一般には落胆の様子がありありと見えた」と回想している[384]。, ハル・ノート着電との前後関係は判然としないが、『杉山メモ』によると、27日の連絡会議で「宣戦に関する事務手続順序」及び「戦争遂行に伴ふ国論指導要綱」が採択され、12月1日御前会議で戦争開始の国家意思を決定すること、開戦の翌日に「宣戦ノ詔書」により宣戦布告を行うことなどが定められた[注釈 39](『機密戦争日誌』には「連絡会議開催、対米交渉不成立大勢を制し、今後開戦に至るまでの諸般の手続きに就き審議決定す」(27日付)とある)[386]。, なお、昭和天皇は27日午後1時27分に東條首相から日米交渉について奏上を受けており、翌28日午前11時30分には東郷外相からハル・ノートの説明を受けている[387]。『木戸幸一日記』には11月28日の欄に「東郷外相参内米国の対案を説明言上す。形勢逆転なり」[388]と記されている。, 暫定協定案については、海外での中国のリーク情報が回り回って日本側にも伝わっており、「米国は経済関係を回復するから、日本も武力行使を取りやめよというような内容のものと判断される」(佐藤軍務課長)、「米側の要求として、我方の仏印部隊全面撤退と資産凍結解除とを関連せしめる模様」(東郷外相)との見方があった[389]。しかし、ハルの回答は対日妥協案のようなものではなく、「予想に反し全く強硬な内容」(佐藤)であった[389]。, 作戦幕僚らに代表される主戦派にとっては、開戦決意を最終的に固める上でも、また国論の一致に貢献する意味でも、ハル・ノートは「天佑」であった[391]。実際、東郷外相や賀屋蔵相も開戦に反対せず、海軍も戦争の決意を固め[注釈 40]、全員一致で開戦の決意がなされた[9]。その意味では、ハル・ノートは日本にとって真珠湾攻撃に匹敵する衝撃を与えたと言える[393]。, 東郷外相は日本側が最終案として提示した乙案が拒否され、ハル・ノートの内容にも失望し外交による解決を断念した。東郷は「自分は眼もくらむばかりの失望に撃たれた」[395]「長年に渉る日本の犠牲を無視し極東における大国たる地位を捨てよと言うのである、然しこれは日本の自殺に等しい」[396]「この公文は日本に対して全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義、即ち日本に対する挑戦状を突きつけたと見て差し支えないようである。少なくともタイムリミットのない最後通牒と云うべきは当然である」[397]と回想している。当時、外務省は中国やアメリカの暗号を解読しており、東郷がアメリカ側で暫定協定案が検討されている事を知っていた可能性が指摘されている[398]。東郷の失望はそうしたものも合わせたものとも考えられる[399]。, 東郷から相談を受けた外務省顧問佐藤尚武は「たとえハル・ノートのようなものが来たからといって、絶望せずに何とか危機を脱する方法を見つけねばならぬと考え、前後三回にわたり、茂徳と、息詰まるような議論を交わした」[400]という。開戦論に転じた東郷の「日米交渉は成立せず、戦争は不可避にして又避くるを要せず、長期戦の必敗は予想するに及ばず、との態度」に対し、佐藤は「戦争は国運顛覆の虞れあるものなれば飽く迄之を避けざるべからず、又避け得」と主張したが、物別れに終わり、佐藤は顧問の職を辞した[401]。, 東郷は28日の閣議において「従来我方の主張とは雲泥の相違あり、且四月以降半才余に亘る彼我の交渉経緯を全然無視せる傍若無人の提案を為し来れり」とハル・ノートを非難した[402]。また、野村大使に対しては「我方としては到底右(ハル・ノート)を交渉の基礎とするに能はず。従って今次交渉は右米案に対する帝国政府見解申入を以て実質的には打切りとする他なき情勢なるが、先方に対しては交渉決裂の印象を与ふることを避けることとし度き」と訓電し、以後の交渉は開戦企図の秘匿に配慮するためのジェスチャーとなった[403]。, 日本では、多くの関係者がハル・ノートを事実上の最後通牒、または宣戦布告であると受け取った[404][注釈 41]。, 12月1日の御前会議において、東條首相は日米交渉に努力してきたが「米国は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、更に米英蘭支聯合の下に、支那より無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の死文化を要求する等、新なる条件を追加し帝国の一方的譲歩を強要して参りました。若し帝国にして之に屈従せんか、帝国の権威を失墜し支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果と相成る」とした[406]。そして、米英蘭支は経済的、軍事的圧迫を強化しており、特に作戦上、これ以上時日の遷延は許されないとして「帝国は現下の危局を打開し、自存在自衛を全うする為、米英蘭に対し開戦の已むなきに立ち至りましたる次第であります」と説明した[406]。, 東郷外相もハル・ノートに対して次のような意見を述べた。「通商問題(第二項6、7、8)及支那治外法権撤廃(第二項5)等、我方として容認し得べき項目も若干含まれて居りますが、支那仏印関係事項(第二項2、3)、国民政府否認(第二項4)、三国条約否認(第二項9)、及多辺的不可侵条約(第二項1)等は、何れも帝国として到底同意し得ざるものに属し、本提案は米側従来の諸提案に比し著しき退歩にして、且半歳を超ゆる交渉経緯を全然無視せる不当なるものと認めざるを得ぬ」「提案を基礎として此上交渉を持続するも、我が主張を充分に貫徹することは殆ど不可能というの外なしと申さなければなりませぬ」[407]。, 会議の結果、対米英蘭開戦が決議される。『杉山メモ』には開戦の聖断を下した昭和天皇の様子が次のように記されている。, 同日、杉山参謀総長と永野軍令部総長は列立して作戦実施の関する大命の允裁を仰ぎ、昭和天皇からは「此の様になることは已むを得ぬことだ。どうか陸海軍は協調してやれ」との御言葉があった[409]。翌12月2日、開戦日が12月8日と最終決定されたことを受け、午後5時30分、連合艦隊司令部から、ハル・ノートが提示される以前にハワイオアフ島真珠湾に向けて出航していた機動部隊へ[注釈 42]、真珠湾攻撃の命令が発せられた[411]。, ハル・ノートにおける「支那(中国)」には満州国が含まれるかどうかがしばしば問題になる(ハル・ノートで言うところの「中国」には満州は含まれていないとする説がアメリカ側の研究者から出ている[412])。しかし、そもそもハル国務長官にとって満州問題は優先順位が低く、日米交渉の争点にすらなっていない[413]。, ハルも野村大使も「中国」という言葉を満州を含む意味には使っておらず、国務省極東部内の認識も同様で、それが現場の常識であった[413]。ハル・ノートの原案であるモーゲンソー案においても満州は中国とは別の地域を意味しており[414]、11月22日案・11月24日案においても「中国(満州を除く)」と明記してあった[413](ただし、11月25日案(ハル・ノート)では「(満州を除く)」という挿入句が外された[413]。24日から25日にかけての数時間の間に、このような修正がなされた理由は現在でも不明である[413])。, 一方、日本政府の解釈であるが、12月1日の御前会議での東條首相及び東郷外相の説明では、ハル・ノートの解釈について「汪兆銘政権の否認」を挙げていても満州国の否認は挙げていないこと、そして東郷が米国案を受諾すれば「其の結果満州国の地位も必然動揺を来すに至るべく」と述べていることから、ハル・ノートにおける「支那(中国)」の中に満州国は含まれていないとの前提に立っていたことが認められる[415]。御前会議において原嘉道枢密院議長がこの点について質問しているので、以下に原と東郷のやりとりを引用する[416][417]。, 原  「特に米が重慶政権を盛り立てて全支那から撤兵せよといふ点に於て、米が支那といふ字句の中に満州国を含む意味なりや否や、此事を両大使は確かめられたかどうか、両大使は如何に了解して居られるかを伺い度い」, 須藤眞志は、東郷が日米諒解案を米提案だと思い込んでいるのは信じがたいものがあるとしつつ、この答弁は論理的にも意味不明であり、質問に対して何の回答にもなっていないと評して、この問題について何の議論も行っていない無関心さを指摘している[418]。そして、東條の東京裁判での宣誓口供書(ハル・ノートの難問として「支那全土(満州を含む)からの無条件撤兵」「満州政府否認」等を挙げている)、田中新一作戦部長の回想(ハル・ノートを「全支(満州を含む)からの撤兵」「満洲国政府の否認」と解釈)、佐藤賢了軍務課長の回想(「満州を含む中国からの全面撤退」と解釈)といった軍部関係者の証言から「とても『(支那の中に満州国は)含まれないとの前提に立っていた』とは思われない」としている[419]。, しかし、安井淳によると、須藤の依拠した軍部関係者の証言は戦後の回想という問題点があり、戦前(あるいは開戦直後)の一次史料と矛盾する[420]。事実、外務省のハル・ノート翻訳文や御前会議での東郷の説明、在米武官からの報告、東條首相のラジオ放送[注釈 43]などからは「満州を含む」との文言は確認できない[420]。原の質問から当時、「満州を含む」との流言があったことは間違いないが、責任ある地位にいた者の中で「満州を含む」と解釈していたとは認められない[420]。, つまり、ハル・ノートで米国から満州撤兵の要求もあったと公然と言われるようになったのは戦後のことであり、その起源を辿ると、東京裁判における被告側(日本側)の主張―満州を含む中国からの撤兵という苛酷な要求により日本は開戦を強いられたという「ハル・ノート開戦説」―に行き着く[420]。, 11月28日付朝日新聞夕刊には「ハル長官、最後的文書を手交」の見出しで、「ハル国務長官は26日午後の日米会談において日本側に文書を手交したが、右は日米問題の平和的解決に対する米国の態度を要約したものと推測される」「野村、来栖両大使とも…記者団の質問に対してはいっさい口を緘して語らなかった」「各方面とも26日の日米会談再開をもって、恐らく日米交渉の前途を卜するに足る重大意義を有するものとの一致した観測を下している」とある[422]。, 11月28日付中外商業新報には「米、原則的主張を飽くまでまげず」との見出しで、ハルが26日に手交した文書について「恐らくは最後的な米側の提案と解されるものである」「米政府スポークスマンの語るところによると、右文書は、『過去ニ、三週間に亘る会談が最高潮に達した事実を表すものであり、…誰でも熟知している或る種の基本的原則に基づいたものである。』とのことであるが、これは米側の提案が依然ある点において過去の原則的主張を頑固に固執していることを示唆するものであり、従って会談の前途はすこぶる楽観を許さざるものと見られる」とある[422]。, また、ニューヨーク27日発の同盟電によれば、「26日夕刻、ハル国務長官が野村、来栖両大使と会見、文書を手交してからは急角度を以って悲観論が圧倒的となり、27日の朝刊各紙は『日米交渉がついに最後の段階に達し、日米関係が和戦いずれかに決定される時が来た』と大々的に報じている」として、「米各紙、悲観論濃厚」としている[422]。, 開戦後には、外務省から「日米交渉の経過」が公表された。その中には乙案の全文やハル・ノート全十箇条の大要が含まれており、12月9日付朝日新聞夕刊では「米、中国撤兵と三国同盟死文化に固執」との見出しで報道された(「対米覚書」についても、「日本側、交渉打ち切りの最後通牒を手交」との見出しで全文が掲載されている)[423]。, ハル・ノートで交渉が絶望的になってもなお開戦阻止の動きがあった。来栖大使は、戦争を防ぎ得るのは天皇陛下とルーズベルト大統領以外にはないとして、様々なルートを使って、大統領から昭和天皇へ親電を打ってもらうよう働きかけていた[424]。また、寺崎英成一等書記官も来栖の賛同を得て、親電工作に乗り出していた[425]。, (11月26日午前、野村・来栖両大使は、乙案全ての通過は困難であることを報告するとともに、事態打開策としてルーズベルト大統領と昭和天皇の間で親電を交換して「空気を一新」する案を東郷外相に進言していた[426]。だが、この案は東郷に却下されていたので、来栖・寺崎の行動は外務省の指示に背くことになる。), 他方、アメリカ側にも親電を打つ案は以前からあったが、ハル国務長官はルーズベルトに「日本の攻撃が殆ど開始される時まで延期するよう」進言していた[379]。, 12月6日、ルーズベルト大統領から昭和天皇に親電が発せられた[427]。親電の趣旨は、もし日本軍が仏印から撤兵してもアメリカは同地に侵入する意図はない、周辺政府にも同様の保障を求める用意がある、南太平洋地域における平和のため仏印から撤兵してほしいというものであった。ハルの原案では「日中の90日停戦、太平洋関係諸国の軍隊の移動禁止、在仏印日本軍の縮小、日中両国の和平交渉の開始」など既に放棄された暫定協定案の再現のような内容であったが、ルーズベルトはこれを採用しなかった[428]。親電を送ることについてのルーズベルトの真意は明らかではないが、ハルは「それを送ることは記録を作る目的以外にはその効果は疑わしい」[429]と否定的だった。, 親電は東京中央電信局で15時間留め置かれ、最終的に昭和天皇のもとに届いたのは12月8日の午前3時(ハワイ時間では午前7時半で真珠湾攻撃予定時刻の約30分前)であった(この時、昭和天皇は「海軍軍装を召され」ていたことが、『昭和天皇実録』によって初めて明らかになった)[430]。戦後、昭和天皇は「この親電は非常に事務的なもので、首相か外相に宛てた様な内容であつ[た]から、黙殺出来たのは、不幸中の幸であつたと思ふ」と回想している[431]。親電について東郷は「此危局を救い得るものとは認め難い」とし、東條も「そういうものは何にも役立たぬではないか」と言ったとされる[432]。, なお、2013年3月に公開された外交文書によって、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が外務省に対して、伝達が遅れずに「電報が天皇陛下に渡されたならば戦争は避けることができたに違いない」との見解を示していたことが明らかになっている[433]。, 現地ハワイ時間1941年12月7日午前7時50分(ワシントン時間午後1時20分、日本時間12月8日午前3時20分)、真珠湾攻撃が開始された。, ワシントン時間12月7日午後2時20分、野村大使からハル国務長官に対米覚書(外交打ち切り通告文)が手交された。東郷外相の訓令には「午後一時を期し米側に(成るべく国務長官に)貴大使より直接御手交あり度し」とあったが、結果的にハワイ空襲の一時間後の手交となった[434]。, などの難点を挙げ、「四年有余に亙る支那事変の犠牲を無視し、帝国の生存を脅威し、権威を冒涜するものあり。従って全体的に観て帝国政府としては、交渉の基礎として到底之を受諾するを得ざるを遺憾とす」としている[435]。, また、日本の乙案に対するアメリカの対応については、「合衆国政府は右新提案を受諾するを得ずと為せるのみならず、援蔣行為を継続する意思を表明し、(大統領が日支間和平の仲介者となると言明したにも拘らず)大統領の所謂日支間和平の紹介を行ふの時機猶熟せずとて之を撤回し、遂に11月26日に至り、偏に合衆国政府が従来固執せる原則を強要するの態度をもって、帝国政府の主張を無視せる提案を為すに至りたるが、右は帝国政府の最も遺憾とする所なり」と非難した[435]。, なお、対米覚書には、日露戦争の際にあった「独立の行動を採る」に相当する文言はなく、開戦宣言あるいは条件付き開戦宣言は明記していない[436][注釈 44]。また、対米覚書は国内においても閣議決定、上奏、裁可の手続きを経ておらず、「国際法上の『開戦宣言』とはなりえず、…国内的措置の形式からいっても敵対国への最後通牒ではなかった」[436]。, 翌8日、ルーズベルト大統領は日本への宣戦布告を求める議会演説「恥辱の日演説」を行った。演説では、日本と太平洋の平和について交渉を進めていたとしているが、ハル・ノートの存在は議会に説明しなかった[438]。, 日米開戦が即アメリカのヨーロッパ戦線への参戦を意味するわけではなく、独ソ戦に日本が参戦しなかったように三国軍事同盟の規定では、加盟国側から仕掛けた戦争に関しては他の加盟国の参戦義務は発生しなかった。ハルの回想によれば、アメリカが他の枢軸国に対しても宣戦布告をするかどうかについて議論があったというが、ドイツの方から宣戦してくると考えて、それを待つ方針を固めたという[439]。ヒトラーは真珠湾攻撃以前から既に対米開戦は不可避と判断しており、12月11日に日本に呼応する形でアメリカに対して宣戦布告を行った[440]。このため、アメリカはヨーロッパ・アフリカ戦線に参戦することとなった。, 現在の研究では、日米間には戦争をしてまで解決しなければならない明確な争点はなかったことが指摘されている[441][注釈 45]。日本は米英蘭の経済封鎖を受けて窮地にあったものの、世界情勢を自主的に判断して、自主的に行動できる自由をもっていたのである[442]。戦争の結果も踏まえると、「日米交渉の不成立によりただちに日本が開戦しなければならないというのは、あまりにも短絡的な思考」[442]であった。, なお、陸軍の一部ではあるが、ハル・ノートの事実上の受け入れが主張されるようになったのは、日独の戦局が不利へと転換した1943年のことであった(戦争指導課9月16日案出「大東亜戦争終末方策」。別紙第三の「世界終戦の為不利なる妥協をするを得さる場合の講和条件(対英米)」には、ハル四原則の承認、三国同盟の破棄、中国については支那事変以前の状態へ復帰、仏印以南の東南アジア地域については仏印進駐前の状態へ復帰などが明記されている)[443]。, 「この文書の冒頭の欄外に (Tentative and without commitment 暫定且無拘束)としてあり、且つ先方は一案(a plan )であると説明したのであるが、その内容からすれば、米国側は従来の主張から一歩も引いていないことが判る。のみならず、全然交渉の始めに戻ったと云う方が適当な点が多い」「乙案の受諾は出来ないから、更に議論しようというのである」「乙案提出の際に、「右ニテ米側ノ応諾ヲ得サル限リ交渉決裂スルモ致シ方ナキ次第ニツキ」と訓令されている上に、二十九日までに調印をも完了というタイム・リミットを課せられている我々の失望は甚大なものであった」と回想している[444]。また、ハル・ノートを最後通牒かと思ったか否かについては、「最後通牒とまでは思わなかつたが、当時の事情の下に於いてはそうも思える」としている[444]。, ルーズベルト大統領とハル国務長官について、「米国の信条とする対外政策の諸原則に膠着し、一歩もその埒外に出ることなくgive and takeは少しもなかった」「両者とも非常に世論を顧慮する。これがけだしデモクラシーの正体であろう」と回想している[445]。, 日米交渉の経過について、「日本の提出した要求の過大なることは勿論であるが、米国の態度が四月所謂日米諒解案の頃とは変調を見せ、六月末の提案を固執して些の譲歩をも示さず、殊に七月末資金凍結以来は極めて非妥協的で、只時日の遷延を図つて居るとしか思へなかつたことである。米のこの態度は交渉の決裂延いては戦争を辞せざるの決意なくしては執れないとの印象を強く受けたのである」「これでは松岡君が交渉不成立を見越してその打ち切りを主張した理由がわかる。むしろ内閣で我が要求条件を緩和しないでただ交渉成立を楽観していた理由が不可解だ」と回想している[446]。また、撤兵問題について「支那に於ける日本の駐兵が不都合であると言い乍ら、外蒙(現在のモンゴル国)に於けるソ連軍隊の駐在に抗議せざるは不公平である」[447]としている。, ハル・ノートについて、「仮令、尚、試案なりと銘打ってあっても談判の最後的階段に於て提出したものであるから、甚だ非妥協的なものである。日本側が公然述べて居る大東亜共栄圏の確立、支那事変の完遂、三国パクトによる枢軸政策とは大凡縁の遠いものである。日本の提案と此米国の試案とを調和せしむることは絶望とは云はずとも至難なことである」と手記に書き残し、また「此の提案に接した日本政府は殆ど交渉継続の熱意を喪失」したとも記している[448]。, 「況んやハル・ノートには最恵国待遇及び通商障壁低減の措置に基く日米通商条約の締結、資金凍結令の廃止、円弗為替の安定、原料物資の無差別待遇原則の支持等平和日本の経済発展に有利に利用し得べきものが含まれていたのだから、なを慎重に考え直して見るべきであった」として、ハル・ノートを受諾してもよかったのではないか、と戦後に述べている[449]。, ハル・ノートについて、「すなわちこれは『試案』であり、『日米交渉の基礎案』であるといっている。実際の肚の中はともかく外交文書の上では決して『最後通牒』ではなかった筈だ。私はあらためて東郷外務大臣を訪ね、・・・執拗にハル・ノートの右の趣旨をいって、注意を喚起した」「私は少々乱暴だと思ったが、東郷君に向かって『君はこのことが聞き入れられなかったら、外務大臣を辞めるべきだ。君が辞職すれば閣議が停頓するばかりか、無分別な軍部も多少反省するだろう。それで死んだって男子の本懐ではないか』とまでいったものだ」と回想している[450]。, 「『暫定協定案が十一月二十六日のハルノートの代わりに来ていたら、あなた方は戦争を決心したか、せんか』ということを東條総理・東郷外務大臣・賀屋大蔵大臣・武藤軍務局長・嶋田海軍大臣・岡軍務局長等、関係者にきいてみた。さすがに東條さんは、『うん、これがくればむろん……』、といいかけられたが、まさかこの期におよんで『これがくれば戦さしなかった』ともいえない、というような顔つきで『ウーン』といって、後は黙ってしまわれた。それから後の人は全部、『これさえ来とりゃ戦さするんじゃなかった』といった。しかし、果たしてそうかどうかは、質問した場合が、戦いはもう負けて、捕われの身になってからの感じであるので、もしも、そんなものが実際十一月の二十五日か四日に来たら戦さをしなかったどうかは、非常に疑問である」と回想している[451]。, 「暫定協定案で雀の涙程の石油をくれても、それでは当時、日本の石油問題は無論解決しなかった」「交渉を延ばせば日本の海軍はもう足腰たたなくなるということを、アメリカはソロバンにおいているのだから。それならやっぱり、ただ日本の言い分が少し通ったというだけで、実質は結局、何にもならないのである。だから、やっぱり戦争になったのじゃないかと思う」[451]。, 「私が一九四一年十一月二十六日に野村、来栖両大使に手渡した提案(十ヵ条の平和的解決案)は、この最後の段階になっても、日本の軍部が少しは常識をとりもどすこともあるかも知れない、というはかない希望をつないで交渉を継続しようとした誠実な努力であった。あとになって、特に日本が大きな敗北をこうむり出してから、日本の宣伝はこの十一月二十六日のわれわれの覚書をゆがめて最後通告だといいくるめようとした。これは全然うその口実をつかって国民をだまし、軍事的掠奪を支持させようとする日本一流のやり方であった」[452]。, また、ハルは日米交渉の目的について、次のように言及している。「ヨーロッパに戦争が勃発し、特にフランスが陥落してから、アメリカは日本とのすべての関係において2つの目的をもっていた。その一は平和であって、その二はもし平和がえられなければ、アメリカの防衛を準備するために時間を稼ぐことであった。アメリカは平和をかちとりえなかったが、無限の価値ある時間を稼いだ」「日本がもし六ヵ月早く真珠湾を攻撃していたならば、世界戦争の全貌が変っていたかも知れない」[453]。, 「米国政府は極東の全情勢を調整するための十ヶ条からなる提案草案を日本に渡した。範囲の広い、客観的にして政治道を具現化した文書であり、もし日本が侵略的政策を中止しさえすれば日本がそのために戦いつつあり称するものをほとんど全部与えることを提議している。このプログラムに従えば、日本は必要とする原料を自由に入手することと、通商貿易の自由と、財政的協力と援助と、凍結令撤回と、米国と新しい通商条約を交渉する機会を与えられる。だがもし日本が東亜の国々を政治的経済的に抑圧しようと欲し―日本の極端主義者の多くはこれを欲している―武力によって南進を遂行せんとするならば、間もなくABCD国家のすべてと戦端を開くことになり、問題なく敗北して第三等国の地位に落ちる」「日本の世論はいつでも比較的短時間に形づくることが出来る。今政府がとるべき賢明な処置はワシントン会談でこれ以上武力にうったえることなく、いままでそれを目的に戦ってきた保全及至『自由』を獲得し、偉大な外交的勝利を占めたことを国民に納得させることである」[454]。, また、グルーはハル・ノートは決して最後通牒ではない、日米間で認められた協議の基礎を明示したものであることを東郷外相に説明したいと、吉田茂に依頼して会談を申し入れたが、東郷は応じなかった[450]。後にグルーは東郷に会ったが、「自分は甚だしく失望している」と告げられたという[455]。, 「もし、暫定協定案について何らかの妥協が成立し、三ヵ月間の猶予期間が得られたとするならば、季節風の条件で日本軍のマレー上陸作戦は困難になっただろう。また独ソ戦の様相も変化する。対独潜水艦戦の成功といった新しい要素も加わり、日本政府が対米戦の決断に達することは極めて困難になるだろう」(1942年2月4日付チャーチル英首相宛の報告書において)[456][457]。, クレーギーの報告書について、「日本がアメリカを攻撃し、そのためアメリカが国を挙げて勇躍参戦してきたことはまさに天の恵みであった。大英帝国にとって、これ以上の幸運はそうざらにはない。日本の対米攻撃は、いずれが我が国の友であり敵であるかを、白日のもとにさらした」と批判し、報告書を厳秘扱いとした[456][457]。イギリスは対独戦に苦戦していた。親日派で知られたチャーチルは対日融和工作を進めていたが[458]、日本がドイツと同盟を締結して以降は戦局打開の策としてアメリカの参戦を切望していた。チャーチルの回顧録によれば、日米開戦の知らせを受け、勝利を確信し喜んだという[459]。, また、チャーチルは、日本の参戦まで多くの時間が稼げたことについて次のように述べている。「もしドイツが一九四〇年六月フランス崩壊後にイギリス本土侵入を企て、またもし日本がそれと同じ時期に、イギリス帝国とアメリカに宣戦したとすれば、われわれの運命がどんなに災厄と苦悶とであっただろうことは、何人も知りえない」(1941年12月26日のアメリカ上下両院合同会議における演説で)[453]。, 日中戦争が持久戦に突入していた蔣介石にとっての悲願は、日ソ開戦あるいは日米開戦の実現であった(日ソ中立条約により日ソ開戦が遠のいてからは、「日米開戦のみが日本に勝利する唯一の方法」となっていた)[460]。蔣介石は故適大使・宋子文を通じて、アメリカが対日妥協を行わないようルーズベルト工作を進めていたが、日米開戦を受け、日記に「抗戦四年半以来の最大の効果であり、また唯一の目的であった」と記した[460]。, 「本法廷において『最後通牒』ということに付多くが語られた。ハル・ノートが『最後通牒』と認められるべきや否やは全く関係ない問題であつて、問題は覚書の効果である。…ハル・ノートは歴史となつた。されば之を現代史家の語に委ねよう。『本次戦争に就いて言えば真珠湾の前夜国務省が日本政府に送つた覚書を受け取ればモナコやルクセンブルクでも米国に対し武器をとつて立つたであろう』」[461][注釈 46]。, ブレイクニーが引用した現代史家の一節を、パールも個別意見書に引用している[463][464]。, また、パールは6月21日付米国案とハル・ノートを比較した上で、これまでの交渉で一度も言及されたことのない条項があることや従来の米国の主張を超えるような要求をしていることを指摘し、「日本の内閣は、たとい『自由主義的』な内閣であろうと、また『反動的』なそれであろうと、内閣の即時倒壊の危険もしくはそれ以上の危険を冒すことなしには、その覚書の規定するところを交渉妥結の基礎として受諾することはできなかったであろう」「ルーズヴェルト大統領とハル国務長官が東京の日本政府はこの覚書の条項を受諾するだろうとか、またこの文書を日本に交付することが、戦争の序幕になることはあるまいと1941年11月26日の遅きに至って考えるほど、日本の事情にうとかったとは、とうてい考えられないことである」という米国人歴史家の一節も引用している[465]。, ハルが乙案に対して「日本の提案を受諾することによって米国が負う義務は全く降伏に等しいものであった」と評価していることについて、「ハルのこの判断の若干の点については多少の疑問がないことはなかった。ハルが提案乙の若干の項目について読み取った意味は、必ずしも正しい解釈であったかどうかは確かでない。また日本が後退を開始すると申し出たことについてのハルの全体的推定が正しかったかどうかも確かではない」と疑問を呈している[466]。しかし、米国が乙案に同意したとしても「日・米両国が行なっている軍事行動について必ず紛議がおこったであろう」「石油についての紛議が重大化して協定を危うくするであろう」として、「太平洋における戦争は避けられなかっただろう」としている[466]。, 「この段階に至ってもABCD陣営の存続が最優先視されたのであり、したがって米国としても単独で日本と取引するわけにはいかなかった。たとえ、三カ月でもABCD陣営を対日譲歩の犠牲にするわけにはいかないという決意のために、暫定協定案は日本側に提示されることはなかった」「ABCD陣営維持が最優先だとされた以上、日本と米国が交渉する意味はなかった」[467]。, 佐藤元英との対談で、佐藤の「日米トップ会談や、『乙案』あるいはアメリカの『暫定協定案』には、交渉妥結の可能性があったのではないか。(中略)ハルやホーンベックなど国務省の問題になるのでしょうか」という質問に対して、「戦争を回避する機会が昭和十六年の八月以降もまだあったということです。しかし、国務省、特にハルやホーンベックらの反対によって、小さいながらも残されていた戦争回避の機会を失ったことは遺憾と言わざるを得ません。ハル・ノートは、日本に仏印や中国からの全面撤兵と汪兆銘政権の否認を求め、日本の「新秩序外交」の全面的否定を明らかにし、いわば日本に満洲事変前に戻ることを求めた厳しい内容であり、日本にとって受け入れがたいものでした。もとより、一九三〇年代、日米戦争に向けての歴史の潮流を推し進めていったのは、日本の中国大陸に対する侵略政策であり、あるいは「東亜新秩序」建設を目指した日本の外交です。(中略)このことを前提としても、ここで考察した時期のアメリカ国務省の対応ぶりにも問題があったことを指摘せざるを得ないのです」と述べている[468]。, 「振り返ると、11月26日のハルの決定は、おそらく間違っていた。たとえハルが日本に暫定協定を提案していても、中国は崩壊しなかったであろう。大統領の言質と軍事物資の輸送がおこなわれていれば、中国の士気は維持され、可能性はわずかであったが戦争を回避するチャンスも残されていたであろう」[469]。, 「米国のこの提案に述べられている極東の政治的・社会的秩序は、日本がこれまで夢みてきたものと真っ向から衝突するものであった。米国の構想は、相互の独立と安全を尊重し、相互に平等な立場で相接し通商を行う秩序ある平等の諸国家間の国際的社会であった。日本の構想は、日本が極東の安定的中心となるというのである。(中略)米国の提案は、日本が戦略や武力で実施しようとした右のような一切のことを拒否しようとするものであった」「しかしそれにしても、この米国の提案を最後通牒と見なすのは、政治的にも軍事的にも妥当ではないように筆者には考えられる」「米国の提案に同意してその政策を転換する。南・北いずれにもこれ以上武力進出は行わないが中国における戦争は極力これを続ける、軍隊の撤収を開始してこれに対し中国・米国・英国から如何なる反応があるかを待ってみる、あくまで勝利をうるための政策を強行する、というのが日本に許された四つの手段であった。日本はこの最後の方法を選んだ」[470]。, 「十一月中旬から同月末までという短期間に、日本か米国かどちらかが立場を変更するということはまずあり得なかった。そのような状態にあって、米国が原点に戻り、その対外政策の基本原則をハル・ノートとして十一月二十六日に日本側に手渡したのもそれなりの必要性を持っていた。ワシントンの日本外交団及び日本政府はハル・ノートによって日米の立場の開きを思い知ったのであるが、彼等がハル・ノートを米国の最後通牒と受け止めたのは当を得ていなかった。このノートの言わんとしたことは、米国は中国、英国、蘭印を支援するが、日本にもこの陣営への参加を呼びかけた上でアジア・太平洋地域の秩序再編を目指したいということだったのである。しかし、日本がこれを拒む以上、両国間に妥協のあり得なかったのも確かである」[467]。, 「ハル・ノートはそれまでの交渉経過を無視した全く唐突なものだった。日本への挑戦状でありタイムリミットなき最後通牒であると東郷が評したのも極論とは言えまい」「この提案の中にはいささかの妥協や譲歩も含まれておらず、ハルもルーズベルトも日本がこれを拒否するであろうことは十二分に承知していた」「ルーズベルトは対日戦争を策謀していた、11/25の会議で議題としたのは和平ではなく、戦争をいかにして開始するかの問題だった」[471]。, ハル・ノート等の外交的挑発により日本は開戦を強いられたという主張を「広義のルーズベルト陰謀説」とし(「狭議の陰謀説」はルーズベルトが事前に真珠湾攻撃を知っていながらハワイに伝えなかったという真珠湾攻撃陰謀説)、ハル・ノートはルーズベルトからの「挑戦状」であるが、日本もそれ以前に真珠湾に向けて機動部隊を出発させているので、どちらが先に挑発したかは水掛け論だとしている[472]。また、秦は「アメリカは、満州事変に対するスティムソン・ドクトリン、日中戦争に対する「隔離演説」など満州事変以後の日本の行動について承認しないことを表明し続けていた。ハル・ノートで要求した満州事変以後の既成事実の全面放棄は、実力による阻止行動を取って来なかった日本の行動についてその清算を求めたに過ぎない」とも述べている[473]。, 「日本側は、ハル・ノートをアメリカが日本に突き付けた「条件」と解釈した。中国・仏印からの撤兵にしろ、無差別原則の適用にしろ、例外なしに実現を迫っているように読めるからである。それは、お互いの条件のすりあわせをはかる外交交渉の常道から懸け離れていた」 「日本側が衝撃を受けたのは、第一にその唐突さと不可解さであった。それを補う役割を担うはずだったのが、暫定協定案であった。もし暫定協定案が付随していれば、ハル・ノートが即座に日本に実行を迫るものではなく、未来に向けて提言された原則論であることが、比較的正確に理解されて筈だからである。(中略)暫定協定案がはずされたことで、際立ったのはアメリカの頑な態度と交渉放棄の姿勢だった」 「しかし、将来構想としても、日本側が全てを鵜呑みにすることは不可能であろう。陸軍とアメリカという強大な敵の狭間で二正面作戦を強いられていた東郷が条件闘争を展開するには、ハル・ノートはあまりに不寛容であった」[474]。, 「ハル・ノートの性格は、基本的に米国六月二十一日案および十月二日案の延長線上にあり、その反復にすぎず、原理原則論から一歩も譲歩していないということである。その理念は米国が構想した戦後の自由主義国際体制の素案であり、…その理念は日本軍部ですら否定できないものが含まれており、…問題は、日本が要求している現実的処理方法に、なぜ配慮してくれないのかということであった。撤兵問題も二ヵ所の駐兵要求のうち一ヵ所(たとえば華北・内蒙)だけでも認めてくれれば、日本の譲歩は、期間の点を含めて、十分あり得ただろう。…とにかく米国が相手国のプレステージに配慮しようという姿勢はまったく認められなかった」[475]。, 「実はハル・ノートの内容については、日米間に悲劇的な誤解があった。ハルのいう『シナ』には満州は含まれず、だいいち彼は最初から日本による満州国の放棄など考えていなかったのである。ハル・ノートは、この点をもっと明瞭にしておくべきだった。満州国はそのままとさえわかれば、日本側はあれほど絶対に呑めぬと考えはしなかったであろう」[476][477]。, 「筆者は東郷外相に近かった数人に、ハル・ノートが『シナ』の定義をもっと厳密にしていたらどうだったかと質問してみた。・・・佐藤賢了は、ひたいを叩き『そうでしたか!あなたのほうが満州国を承認するとさえ言ってくれれば、ハル・ノートを受諾するところでしたよ』と言った。・・・賀屋(興宣)は、『ハル・ノートが満州国を除外していれば、開戦決断にはもっと長くかかったはずです。連絡会議では、共産主義の脅威を知りつつ北支から撤兵すべきかどうかで大激論になったでしょう』と答えた」[478]。, 「両国とも戦争は望んではいなかった。日本の指導者たちはアメリカの莫大な経済軍事資源に一目を置いており、そうした大国と戦うことはまったく思慮を欠くものと考えていた。他方、アメリカの指導者たちに日本人に対する尊敬の念があったわけではない。ただアメリカの現実的利益がヨーロッパに存在すると考えていたために、アジアでの戦争を極力避けたかったのである。双方が平和を希求していたからこそ、外交の機会がありえたのである」「そもそも外交の目的とは、利害対立を有する国家が戦場においてでなく相互の差異を解消する方法を見出すことにある。…こうした基準からすると、アメリカの外交政策担当者は失敗したことになる。四年以上の期間を通して、彼らはアメリカの政策、日本の政策、いずれも戦争を回避する方向に導くことができなかったのである」[479]。, 「どちらかというと日本人と同じく、力ずくでなければ日本人には通じないと思いこんだ米国は、交渉への取り組みが異常なほどかたくなで、日本が納得しうる妥協を切望しているのを判断し損なった」「米国政府が中国の陳情とチャーチルの発言通りにするや、真の暫定協定の可能性も消えうせてしまった。日本は、壁に背を向けて、これ以上の話し合いは全く無益であると悟った」「とりわけ強調すべきなのは、米国が加えた対日経済制裁と、適度の強さ、柔軟性、想像力で外交交渉を行うのに米国が失敗したため必然的に生じた結果が、日本としてみじめな降伏に屈しないためには、太平洋戦争しか代案がなかったということだ。問題の核心は、あの戦争を避けられたかもしれない対日政策をとるのは、米国と英国の権力者の手中にあったのである」 [480]。, 「もしハルが、東アジアの政治的現実にもっと関心を示し、さらに他国民もすぐれて法律的かつ道徳的な原理にたいし口先だけでも好意をしめすべきだということにハル自身があまり執着しなかったら、太平洋戦争はたぶん避けえたろうと思われる」「しかしながら、アメリカ国民はこの事実を当時も理解しなかったし、現在にいたるまで理解していない。自分たちは攻撃され挑発された、したがって防御しなければならない、だからこの戦争の目的は自分たちを攻撃した勢力を打倒することにある。こういう単純な印象のもとにアメリカ国民は太平洋戦争に乗りこんでいったのである。それで彼らは本当のところ、自分たちが何のために戦っているかについて、第一次大戦や第二次大戦のヨーロッパ戦線の戦争目的以上に明確な目的を持ちえなかったのである」[481]。, 「日本側は松岡を除いて、確固たる対米観が存在しておらず、十分に説明すれば、日本の立場を理解してくれるはずという楽観的見方が支配的で、(日本に対して)悪しきイメージをアメリカ当局者達が抱いているとは想像もしていなかった。一方、アメリカ側は、日本は説明してもわからない国であり、制裁という態度で示すのが最も効果のある説得方法であると確信していた。それは日本に対する不信感に裏打ちされていた」として、松岡の強硬論も誤算であったこと、近衛の楽観論は結局裏切られたこと、そして、ホーンベックの力による封じ込めで日本は屈服するという合理主義も、日本には弱い者でも時には強い者に立ち向かうという非合理主義があり通用しなかったことを挙げ、「結局のところ、(日米)相互に誤ったイメージの上に作られた政策の行き違いが悲劇を生む結果」となったと指摘している[482]。, ハル・ノートをめぐっては、「ソ連が独ソ戦を有利に戦うために日米開戦を策した」という「ソ連陰謀説」が一部に存在し、ハル・ノートの作成過程にソ連の関与が噂されていた[483]。事実、ハル・ノートの原案となったモーゲンソー私案を作成したハリー・ホワイトは、戦後にソ連のスパイとの容疑をかけられている[484]。ホワイトは非米活動委員会で疑惑を否定し、その後間もなく急死した[484][注釈 47]。, そして、1990年代になってソ連の内務人民委員部(NKVD。後のKGB)工作員であったビタリー・グリゴリエッチ・パブロフがホワイトと接触し、アメリカの交渉戦略に関する情報等を提供していたことが明らかとなった[485]。ソ連側ではホワイトの名前から「スノウ(雪)作戦」と呼ばれていた[486]。ただし、パブロフ自身がホワイトと会ったのは1941年5月の一度だけであり[486]、6月6日にはホワイトが私案を作成したものの、この時はモーゲンソー財務長官の興味を引かなかった[487]。, パブロフは、関東軍の脅威のなかでソ連極東地域を日本の攻撃と侵攻から防衛することが目的であったと述べており、日米を開戦させるという考えは全面的に否定している[488]。「雪作戦」の主眼は、アメリカの圧力と妥協で満州の関東軍を撤退させる、その見返りにアメリカは日本に経済的埋め合わせを行うということであり、モーゲンソー私案にもそれらが明確に表れている[489]。ただし、ソ連の工作により、ホワイトがモーゲンソー私案を書いたとまでは断定できない[489](パブロフの証言によれば、パブロフらの考え方がホワイトの状況の理解と合致したとしている[490])。結論的には、ソ連の工作によって日米戦争が起きたとする「ソ連陰謀説」は確定的では無い[489]。, なお、一部にはソ連の関与を持って、「ハル・ノートはソ連製」とする誤解もあるが[注釈 48]、ホワイトが作成したのは原案に過ぎず、ハル・ノートを作成したのはあくまで国務省極東部である[492][493]。, アメリカの高等学校用の教科書(『アメリカン・ページェント―共和国の歴史』(2002年版))では以下のように記載されている[495]。, なお、ルーズベルト自身もJB355にサインしており開戦は時間の問題であった[要出典], 「われわれがこれを知っていたのは、陸海軍の暗号専門家が驚くべき腕前を見せて日本の暗号を傍受し、東京からワシントンその他の首都に送られる日本政府の外交電を解読し、英語に翻訳して国務省に送り届けていたからである。この解読情報は「マジック」という名前がついていたもので、交渉のはじめのうちはたいして役に立たなかったが、最後の段階では大きな役割を演じた」, 「この提案からは希望の光はほとんどさしていなかった。日本は自分の利益になることばかり主張していた。…これを一言のもとに拒否することは、われわれが何ヶ月もたったのちにはじめて出会った、日米間の提案を根本的に討議する唯一の機会を捨ててしまうことであった。そこでわれわれはこの日本の提案を基礎にして交渉を進めることにしたが、それは、もし日本を説得して三国同盟から脱退させるわずかの可能性でもありそうだったら、その目的だけを追求すべきだと考えたからだ」, 「これは私の主観が入るが、(アメリカの対日態度の)変化は著明であったと思う。…私の考えでは独ソ戦即ち6月22日以前において(日米諒解案に基づく交渉を)纏めれば纏められる」, 「彼らは公然たる非友好的な行為を修飾するために、平和と友好という嘘と詐欺的な言葉を使うのである。これは彼らが前進の準備ができるまでそうするのである, 「もしアメリカが石油を絶っていたら、日本はおそらく一年前に蘭領インドに赴き、アメリカは日本と戦争したであろう。アメリカは自己の利益のため、イギリス防衛のため、海洋自由のため、南太平洋から戦争を締め出す希望をもって、日本に石油を供給した。それは過去二年間役に立った」, 「もし日本政府が武力ないし武力の威嚇によって隣接諸国を軍事的に支配しようとする政策または計画にしたがい、今後なんらかの手段をとるならば、米政府は、アメリカおよび米国民の正当なる権利と利益を保護し、アメリカの安全を保障するために必要と思われる一切の手段を、直ちにとらざるをえないであろう」, 「対英米戦争は長期持久に移行すべく、戦争の終末を予想すること甚だ困難にして、とくに米国の屈服を求むることは先ず不可能と判断せらるるも、我が南方作戦の効果大なるか、英国の屈服等に起因する米国世論の大転換により、戦争終末の到来必ずしも絶無にあらざるべし」, 「支那事変にて数万の生霊を失い、見す見すこれを去るは何とも忍びず、但し日米戦ともならば更に数万の人員を失うことを思えば、撤兵も考えざるべからずも、決し兼ぬる所なり」, 「右の如く南仏(印)より北仏(印)に移駐すること、及乙案不可なることに就ては、総長次長は声を大にして東郷と激論し、東郷は之に同意せす、時に非戦を以て脅威しつつ自説を固持し、此儘議論を進むる時は東郷の退却即倒閣のおそれあり、武藤局長休憩を提議し十分間休む」, 「ついに傍受電報に交渉期限が現れて来た。…これの意味するところはわれわれには明白だった。日本はすでに戦争の車輪をまわしはじめているのであり、11月25日までにわれわれが日本の要求に応じない場合には、米国との戦争もあえて辞さないことにきめているのだ」, 「ハルは三ヵ月の休戦案を提示した。彼は今日か明日のうちに日本側に提案するつもりであった。それは米国の利益を十分に保謹したものであることを一読してすぐに知ったが、しかし、提案の内容はひじょうに激烈なものであるから、私には、日本がそれを受諾する機会はほとんどないと思われた」, 「大統領は、“日本人は元来警告せずに奇襲をやることで悪名高いから、米国はおそらくつぎの月曜日(12月1日)ごろに攻撃される可能性がある”、と指摘して、いかにこれに対処すべきかを問題にした。当面の問題は、われわれがあまり大きな危険にさらされることなしに、いかにして日本側に最初の攻撃の火蓋を切らせるような立場に彼らを追いこむか、ということであった。これはむずかしい命題であった」, 「私が陸軍省に帰ったとき、日本がすでに遠征をはじめているという陸軍情報部からのニュースを知った。五個師団が山東や山西から上海に来て、そこで三〇隻か、四〇隻か、または五〇隻の船に乗りこみ、これが台湾の南方で認められた。私はすぐハルを電話口へ呼び出してそのことを告げたあと、陸軍情報部からの報告の「写し」をハルと大統領に送った」, 「中国政府の反対及び英蘭豪政府の冷淡な支持または事実上の反対に鑑み、また反対が広く周知のこととなった事実、及び暫定協定がとくにもっている広範な重要性と価値とに関する理解の全面的欠如に伴い、当然これ以上の反対の、なお広がる可能性に鑑み、いずれにせよ太平洋地域に関心を持つ侵略国に対抗する諸国すべてにとり、右措置が賢明かつ有利なりとする私の見解を捨てはしないが、この際日本大使を招き一般的平和解決の為の総合的基本的提案を手交し、同時に暫定協定を撤回することを哀心より強く提唱するものである」, 「我々はこう確信しているのだが、日本の最大の利益は、ヒトラー主義とその攻撃の進路に追随することからは出てこないだろうし、また、日本の最良の利益は、我々が今般の会談で概要を伝えた進路にある、ということだ。しかしながら、もし日本が不幸にして前者をとることに決定するならば、一片の疑いもなく、日本は終局において敗者となることを私は確信している」, 「今朝まず第一に、私はハルを電話口に呼び出して、日本との交渉の最後はどうなっているか、すなわち、われわれが二、三日前に意見を述べたあの新提案を日本に手渡したかどうか、あるいは、ハルが昨日いっていたように、いっさいを断念したかどうか、これらの点を聞き出した。ハルはそれに答えて、「私はそれから手を引いた。いまやそれは君とノックスとの手中、つまり陸海軍の手中にある」とつけ加えた。そのあと私は大統領を電話口に呼び出した。大統領は私に向って、すこし違う意見を述べた。大統領は、日本は打ち切ったが、しかし、日本はハルの準備した立派な声明によって打ち切ったのだと言った。これは事柄の再開でなく、米国の不変の原則的立場の声明であったことを、私はあとで知った」, 「『ハル・ノート』接到迄は全力を尽くして働いた。又闘つた。同『ノート』により、我が力の足らざるを謝すよりも、我が誠意の認められざるを恨む気持ちの方が強かつた。其後は働く熱がなくなつた」, 「本日ノ会議二於イテ、オ上ハ説明ニ対シ一々頷カレ、何等御不安ノ御様子ヲ拝セズ、御気色麗シキヤニ拝シ、恐懼感激ノ至リナリ」, アメリカ側は日米交渉を「正式な交渉(formal negotiations)」ではなく「非公式な予備的会談(exploratory conversations)」と位置づけていた, 両師と松岡の面談で出来上がった覚書には「日本軍の中国からの漸進的な撤収を条件に日米間の会談を行う」との内容があったとされる, 当時、駐米大使の座は空席であり、新大使にはルーズベルト大統領と旧知の野村が起用された。この人事は松岡外相なりの日米交渉の布石とされるが、松岡も野村もお互いを信用しておらず、日米交渉が進むに連れて両者の溝が深まることになる, 井川の正式な肩書は外務省属託(無給)であったが、米国側には全権代表や臨時外務大臣を自称し、身分を偽っていた。このような井川が在米中に日米交渉に関与できた要因は、, こうした誤解がなされたのは野村大使の電文に責任があるとする説がある。しかし、現在この電文を読んでも、米国側からの提案との解釈はとても導き出せない, 野村大使は日米諒解案について松岡外相に何ら請訓しておらず、このため外務省では、諒解案はアメリカを利用して日中戦争解決を図る陸軍外交ではないか、松岡不在中を狙って三国条約の骨抜きを既成事実化する謀略ではないか、との疑惑を深めた, 参謀本部戦争指導班の業務日誌。戦争指導班の任務は、長期的・総合的観点から国策の起案を行うことであり、「とくに、昭和15年からは、大本営政府連絡会議に提出する議案の作成や審議に参加し、陸軍省や海軍省、軍令部、外務省などの部局との折衝を通じて、政治や外交、経済問題」に関わっていた, ただし、アメリカとイギリス、オランダの間で、制裁について事前に了解があったわけではない。イギリスは「日本を弱らせるが挑発しない」という慎重な政策を採っており, 資産に関わる問題は財務省の管轄にあり、そのトップであるモーゲンソーは、経済制裁をすれば日本は屈服すると考えていた。アチソンも同様の考えで、彼は禁輸に関する職務を専管する外国資産管理委員会のリーダーであった, この対日警告はチャーチルとの約束を元に行われ、米政府内では最後通牒的性格を持つものと考えられていた, この日支間協定は日華基本条約を指し、華北への駐兵は固守するという意味であるが、「駐兵と明らかに書けば先方がこだわるから…」(武藤軍務局長)という理由で曖昧にされた, 太平洋戦争開戦前の時点で、支那事変における戦死者は18万5千人以上、戦傷者は32万5千人以上にのぼり、「日本がそれまで戦ったなかで、最も規模が大きく最も犠牲の大きな戦争」となっていた, 戦後間もなく行われた「海軍特別座談会」(海軍首脳や幕僚が出席)によれば、「海軍は戦えない」と言えなかった理由は、主に海軍の存在意義を失う、艦隊の士気に影響する、近衛首相に"下駄をはかせられる”(避戦の責任を押し付けられる)のを警戒したことなどが挙げられている, 敗戦後、木戸は東條指名について、国際検察局の厳しい尋問にさらされることになった。「あなたは当時、東條が何に賛成し何を主張していたかについてすべて知りながら、日本人一億人のうちで彼が対米戦を避けることのできる公算の、最も大きい人だと本当に思っていたのですか」, もっとも、東條は「強硬意見を持した自分に大命が降下したのであるから、自分は何処迄も強硬な態度を持続していい筈」などと述べたため、一度は東郷に就任を拒絶されている, もっとも、東條への大命降下を知った海軍の岡軍務局長は日記に「甚だしく予想に反す」と記し、天皇の御言葉による避戦という手法にも「とんでもなき事なり」と記している。果たして東條が適任であったかは疑問が残る, 前夜、嶋田は東條に海軍軍備の手当てを申し入れ、莫大な量の物資(例えば、鋼材の30万トン増配等)を配分するよう要求していた, プロスペクト理論によると、人間は損失を被る場合はリスク愛好的な選択を行いやすい。この場合、「国力低下による2、3年後の確実な敗北」と「高い確率で惨敗するが、万が一勝てるかもしれない戦争」では後者が選ばれやすい状況にある。加えて、日本のような集団的意思決定システムでは平均よりも極端な方向に意見が偏りやすく、この場合、極めてリスクの高い選択(「万が一勝てるかもしれない戦争」)が支持されてしまう。, 決定案では第3項は「日米両政府は相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰しべし。米国政府は所要の石油の対日供給を約す」、第4項は「米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与ふるが如き行動に出でざるべし」となっている, 大本営政府連絡会議、御前会議等の議事録。杉山参謀総長は会議の内容を克明にメモしており、帰庁後、各部長以上を集めて、それを説明していた。この口述を, この他にも東條が号泣したエピソードがあるが「開戦を決定した瞬間の日本の指導者に求められていたのは、天皇への忠誠心ではなく、組織的利害を国家意思に反映させる技術でもなかった。彼には、異なる国との異なる利害を調整する大戦略と、そのための大きな政治力が求められていたのである」, 戦後の東京裁判でも、検事側は主にマジック資料をもとに、日本の提案は最後通牒であったと主張した。これに対し、弁護側は誤訳、捏造であったと反論し(実際、甲案の説明文の箇所で、原文の「最後的譲歩案」が「マジック」では「最後通牒」と翻訳されていた)、東郷や東條もアメリカが譲歩すれば日本も譲歩する用意があったと述べている, この文言が満州を含むの意味なのかという問題については、第6項の満州からの条件付き撤兵と矛盾するため、満州は中国には含まれないと解釈するのが自然である, 対する日本の石油輸入の希望量は米国より400万トン(米国から昭和13~15年に輸入された石油の平均量)、蘭印より200万トン(従前の日蘭交渉で蘭側が同意した年180万トンを基礎としている)であった, 英文:The Government of Japan will withdraw all military, naval, air and police forces from China and from Indochina.

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