インドネシア 植民地 日本

英国人と共に 有色人種蔑視(べっし)の傾向が特に強いオランダ人によって、 350年も続いたジャワ (現、インドネシア)の植民地支配は過酷なものでした。 Bart van, 1993, Gedwongen prostitutie van Nederlandse vrouwen in voormalig Nederlands-Indi? スラバヤの市街地を占領するのに100日間も費やしたイギリスは軍事制圧を断念、和平交渉に転じ、1946年11月12日、インドネシア・オランダ間で暫定的な停戦協定が成立するや軍隊を撤退させた。, しかし、スラバヤでの 『侵略戦争』 で、市街地を灰にし、約2万人ものインドネシア人を殺害したことに対してイギリスは、何ら謝罪も補償もしなかったのである。, このころ、東京裁判 では、戦勝国の一員としてイギリス・オランダの両国は、インドネシア独立を支援した日本の指導者を 『 侵略戦争 』 を行った罪で裁いていた。 「350年続いた軍事力を背景にしたオランダによる植民地支配を、わずか9日間の戦いで終わらせた日本陸軍。インドネシアの独立国作りは、ここから始まった」, 1596年、オランダはヨーロッパが欲しがっていた香辛料 (※ 肉の臭みを消してくれる:大変な高値で売れ、銀と同じ価値を持っていた) の最大生産地インドネシアに艦隊を派遣。, 1602年、インドネシアを侵略、香辛料を独占し、以来、東インド会社を拠点に収奪を繰り返した。 6・ オランダはインドネシア国民の統一を阻止すべく、全国各地域で用いられていた320の種族語をそのままにして、一つの標準語にまとめようとする企ては絶対に許さなかった。, こうしたインドネシアからの徹底した搾取により、小国オランダは大いに栄えたのである。, 昭和16年8月、オランダは300年に渡る友好的な日蘭貿易の歴史を踏みにじり、日本の生命線である石油をオランダの植民地であるインドネシアから輸出することを止めた。(ABCD包囲網), 白人国家の仲間であるアメリカとイギリスの甘言に乗って、友好関係を続けてきた日本を裏切ったのである。, 昭和16年12月8日、日本政府は米英との戦争を起こすも、友好の歴史が長いオランダとは、平和の裡(うち)に原油の輸入を再開すべく、交渉努力を重ねた。, しかし、オランダは、有色人種でしかない日本と戦争になっても勝てると確信しており、最終的に交渉を拒否。, 昭和17年3月1日、オランダにより一方的に止められた石油資源確保を目指し、今村均中将率いる陸軍の主力第16軍5万5千はオランダ領インドネシアに上陸。 わずか9日間の戦闘でインドネシア全域のオランダ軍を主力とする、イギリス、アメリカ、オーストラリアの連合軍9万8千を降伏させた。, それまで350年もの長期にわたったオランダのインドネシア支配を、わずか9日間の戦いで、日本軍は撃ち破ったのである。, この時、私たち戦後世代では理解ができない、とても不思議な現象と遭遇したことに気づかれましたか?, 私たちは、「日本軍がアジア侵略をし、アジア人と戦争し、アジアの人々に多大なる苦痛を与えた」と学校で学び、テレビが放送し、国会議員たちがひたすら謝罪し、新聞や雑誌や参考書には、日本軍のアジア侵略が書き継がれてきました。, もし、私たちが信じ続けてきたアジア侵略の歴史が正しいのであれば、日本軍の相手となるのは、インドネシア軍に所属するインドネシア人でなければなりません。, しかし、日本軍と戦ったのは、なっ、なっ、なんと! インドネシア人ではなく、オランダ人であり、アメリカやオーストラリアに住む白人たちだったのです。, 「白人種たちは、インドネシア人の為に、彼らに代わって、命を投げ出す覚悟で日本軍と戦った」のでしょうか?, 私たちが学んできた歴史では説明ができない真実の姿が、この本を読み続けることで、明らかになっていきます・・・, オランダ軍を打ち破った日本陸軍・今村大将は直ちに軍政を敷き、それまで抑圧されていたインドネシア人による軍隊の結成や官僚の育成、投獄されていたインドネシア独立運動の指導者たちの釈放、法制度、オランダの愚民化政策で行われていなかった教育制度、イスラム教の制限の撤廃、オランダにより禁止されていた民族共通語としての母国語(インドネシア語)教育、誇りを取り戻すために歴史教育の開始ほか、病院や道路、上水道設備、学校、工場などの様々なインフラ整備を進めたのです。, インドネシア語を公用語にすることで、多言語社会で国家としての統一が取れず、オランダ植民地支配が続き搾取され続けてきたインドネシア人を、団結させることに成功したのである。 日本軍はジャカルタを占領すると、オランダ軍司令部のあるバンドゥンに向い、1942年3月9日にインドネシアのオランダ軍は日本軍に降参したのです。それはたった一週間のことでした。「350年もの間インドネシアを支配していたオランダが、たった一週間で降参」したというのは本当に信じられないことで、私たちはなかなか理解出来ませんでした。日本人、つまり私たちと同じアジア人が白人を大東亜から追い出すことが出来たのは、正に大勝利でした。私たちは日本国民に大変感謝しました。また、それは神様の恵みでもあると理解していました。 (1944年、小磯総理はインドネシアの人々に将来の独立を約束した。この時、戦争は厳しい局面を迎えており、インドネシア国旗の掲揚は日の丸国旗の掲揚と一緒でなければならなかった。)※意訳 日本がインドネシア人に行った訓練は非常に重要なものでした。それは肉体的に鍛えただけではなく、インドネシア人を精神的にも鍛えたのです。そして私たちは大きな成長を遂げました。・・・ 昭和四十二年六月 今村 均, https://www.youtube.com/watch?v=Bfua7nvXqhQ&list=TLtuI2iXbVA8kyMDExMjAxNQ&index=4, http://www.youtube.com/watch?v=Dx-BBg0AgP4&feature=endscreen&NR=1, http://www.youtube.com/watch?v=ElAoXeGmj2k, 動画では、パレードの前日祭に集まったインドネシアの人々が、日本の歌である『愛国行進曲』、『愛国の花』、『太平洋行進曲』などを皆で楽しげに歌う様子が捉えられている。みな一様に明るく楽しげに、まるで昔を懐かしみ愛おしむかのように、声をそろえて日本のメロディを口ずさんでいる。日本の国旗(日章旗)も見える。, 戦後の自虐史観を植え付けられた日本ではもう二度と見られない、そして日本のマスコミでは絶対に取り上げられない、身を挺してインドネシア独立を導いた日本への思いが、この動画にはありありと映し出されている。, まさにそれは、異国に咲いた愛国の花。戦後教育で失われた日本人の魂のかけらが、確かにそこにはあった。, http://www.youtube.com/watch?v=3Q_4DuH1K08, http://www.youtube.com/watch?v=RPRgmowYy1U, http://www.youtube.com/watch?v=HPWS4h3WmI4, 1602年、インドネシアを侵略、香辛料を独占し、以来、東インド会社を拠点に収奪を繰り返した。, 面積にしてインドネシア60分の1の小国オランダが、その後、350年間もインドネシアを植民地にして搾取を続けた, 1・ オランダの安全と利益に関係のない限り放任して、人民を文盲のままにして置き、各地の土候(サルタン)を使って、間接統治したこと。 つまり、徹底した, インドネシア語を公用語にすることで、多言語社会で国家としての統一が取れず、オランダ植民地支配が続き搾取され続けてきたインドネシア人を、団結させることに成功したのである。, そして、インドネシア人指揮官が率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織させ、日本軍政下ではあったものの、インドネシア人がこれまでのオランダ統治下では決して得ることのできなかった権限を与え、軍事教練を行った。終戦までのわずか3年半の日本軍による統治だったが、インドネシア人に教育を施すことにより、自信と誇りと「祖国独立の実現への夢」を与えたのである。, 日本の敗戦後、昭和20年8月17日、初代大統領に就任したスカルノは独立を宣言した。, ところが、日本軍に駆逐されたオランダは9月下旬、「インドネシア人は極めて従順な支配しやすい種族である。日本軍が降伏してしまった現在、我々が上陸すれば、彼らはただちに元どおり従順になるに違いない」 と考え、インドネシアの独立宣言を無視してイギリス軍とともに、再度インドネシアを 『 侵略 』 すべくスラバヤに上陸した。, しかし、インドネシア軍はもはや従順ではなかった。日本軍によって訓練され、日本が降伏した後、日本軍が命がけで横流しをしてくれた武器を持ったインドネシアの民衆軍に強襲され、イギリス軍はたちまち一個師団が全滅してしまう。, インドネシア独立戦争には、旧日本軍兵士 およそ2,000~3,000名が、己の良心、生き様、そして 武士道精神 に基づき、本国の命令を無視、脱走兵の汚名を着ることで故郷に残した家族が肩身の狭い思いをする苦悩をも乗り越え、インドネシア独立のために、命を懸けてペタの中心となって戦ったのである。, スラバヤの市街地を占領するのに100日間も費やしたイギリスは軍事制圧を断念、和平交渉に転じ、1946年11月12日、インドネシア・オランダ間で暫定的な停戦協定が成立するや軍隊を撤退させた。, このころ、東京裁判 では、戦勝国の一員としてイギリス・オランダの両国は、インドネシア独立を支援した日本の指導者を 『 侵略戦争 』 を行った罪で裁いていた。, オランダ軍は戦車、飛行機、重機関銃など近代装備の部隊約10万人。 インドネシア共和国軍は兵員こそ200万人だったが、武器は日本軍より秘密裡に渡された小銃4万丁と数百の野砲、トラック、弾薬、軍刀ぐらいで、大半の兵士は竹槍を手に立ち向かった。, 当時のインドネシア外相であったアブドルガニー氏は、江崎道朗氏のインタビューにこう答えている。, (『(中島慎三郎「アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論」『祖国と青年』1994年2月号), 私は、大東亜戦争中、日本の軍政監部の指導の下で色々なことを学ばせて頂き、さらには、日本に留学までさせて頂きました。それによって、私は成長させて頂き、人生が拡がっていきました。ですから、私は日本に大変感謝しています。・・・, 歴史上初めてアジア人が白人に勝ったという1904~5年の日露戦争のことについては高等師範学校時代に本を読んで知りました。私は歴史が好きでしたから、ジャカルタの高等師範学校に入った後に、そういう日本についてのことを知るようになりました。, インドネシアではオランダがそういう情報をストップしていて、自分たちに都合のよいことばかりを流していました。それでも私たちは、アジア人で一番初めに白人を負かしたのは日本だということを知ったのでした。・・・, 真珠湾攻撃の翌年、1942年1月に日本はオランダに宣戦布告をしました。香港を取り、フィリピンを取り、それからマレーシアを取り、そして、いよいよインドネシアにも上陸する、ということになりました。・・・, 私たちは非常に希望を持っていました。日本がオランダを追い出し、インドネシアを解放してくれるという期待が日ごとに現実味を増してきたからです。どうしてもオランダ人を追い出さなければいけない、というのが私たちの気持ちでした。特にイスラム教徒はそうでした。, 日本が攻めてくるということは本当に有り難かったです。日本人によってオランダ人が追い出されるのですから、私たちは大喜びしました。, 日本軍はジャカルタを占領すると、オランダ軍司令部のあるバンドゥンに向い、1942年3月9日にインドネシアのオランダ軍は日本軍に降参したのです。それはたった一週間のことでした。「350年もの間インドネシアを支配していたオランダが、たった一週間で降参」したというのは本当に信じられないことで、私たちはなかなか理解出来ませんでした。日本人、つまり私たちと同じアジア人が白人を大東亜から追い出すことが出来たのは、正に大勝利でした。私たちは日本国民に大変感謝しました。また、それは神様の恵みでもあると理解していました。, インドネシアから日本によってオランダが追い出され、インドネシアが独立するということは神様の恵みなのです。・・・・, その部隊は二週間ぐらい村に駐屯していましたが、その間に、私は兵隊さんたちと色々と話をしました。彼らはみな優しくて、私の家へ遊びに来るようになりました。・・・私の母は朝から晩まで一生懸命に色々なお菓子を作ったり、ナシゴレン(インドネシア風チャーハン)などを作って食べさせていました。兵隊さんたちは母のことを「お母さん」と呼んで、家にやって来ては「お母さん、ライスを作って下さい」などと頼み、母が張り切って作っていました。・・・また兵隊さんたちは律儀にそのお礼にお金を払おうとするのでした。私は「ノー、ノー、いらない、いらない」と言うのですが、みなきちんと払っていました。, オランダによってインドネシアは17世紀以来、350年も占領されていました。オランダの統治時代の生活は酷いものでした。というのは、オランダがこの地に来たのは、この国で生産されたものをヨーロッパに持っていくためだったからです。それが、植民地主義の始まりでした。・・・今私が住んでいるのはジャカルタ市の中心地ですが、オランダ時代は、インドネシア人は住むことが出来ない地区でした。・・・, 殆どの人々には教育の機会がなく、読み書きが出来ない子供たちも沢山いました。・・・それは「インドネシア人を無知蒙昧のままにしておく」というオランダ政策の一つだったのでした。オランダ人は原住民であるインドネシア人に対して、はっきりと下等階級という扱いをしていました。・・・・小さい頃の私をもっと傷つけたのは、町の中心地にあったスイミング・プールでした。プールの入り口には大きな看板があり、「犬とインドネシア人の立ち入り禁止」と書かれていました。・・・, 第2次世界大戦前、アジアのほとんどの国は白人たちの植民地となっていました。それを、日本が白人たちと戦うことによって解放したということは間違いのない真実です。, それは始まりからそうだったのです。つまり、それは1904年の日露戦争からでした。私は第2次世界大戦前から、日本がロシアに勝ったことを知っていました。そして、日本の発展していく様を見てきました。, 当時私は、日本はアジアを代表する国だと思いました。日本のお陰で、白人だけが強いのではない、私たちもまた強くなれるのだと思うことが出来たのです。日本の日露戦争の勝利は私たちを非常に勇気付けたのです。, 日本は、当時アジアで唯一白人と対等だった国でした。私たちインドネシア人はきちんとした教育も受けられず、何の権利もなく、白人に対して自分たちは劣っていると考えていました。自分たちが白人と対等になれるとは思っていませんでした。, そしてまた、日本以外の一体誰が、アメリカを攻撃しようなどと思ったでしょうか。それを実行したのは唯一日本でした。「日本だけが、アジアを支配し続ける白人に立ち向かっていったのです。」・・・・, 日本がインドネシア人に行った訓練は非常に重要なものでした。それは肉体的に鍛えただけではなく、インドネシア人を精神的にも鍛えたのです。そして私たちは大きな成長を遂げました。・・・, もし日本がいなければインドネシアの独立までには、さらに百年かかっていたかも知れません。それを、日本はたったの3年半に縮めたのです。, 平成6年、村山富一首相(旧社会党、民主党と社民党に分裂)は、東南アジア歴訪で謝罪を繰り返していることに対し、 マレーシアのマハティール首相から, この稿は、終戦直後、進駐軍が、大和民族の精神弱化を強行した時期、それまで不遇の地位にあった人々が、これに便乗し、祖国の伝統と歴史とが、いかにもつまらぬものであったかのような文や言説を、盛んに致したことに憤慨し、執筆したものであった。, 今日に至っては、米・英および多くの国が、逆に日本民族の優秀性をしきりに説きはじめているのに、なおわが国のいわゆる進歩的文化人は、あらゆる手段、特に教育において青少年に対し、祖国を軽視せしめるような行為や論説をつづけてやまない。. [90], 武力衝突の最終段階は1945年10月、日本がインドネシア側に譲渡した町や都市の支配権を、連合軍との降伏条件に基づいて取り戻そうとした時に始まった。日本の憲兵隊は10月3日にペカロンガンで共和党の若手議員(Pemuda)を殺害し、また日本軍の部隊は西ジャワ州のバンドンから共和党の若手議員を追放してイギリスに都市を引き渡したが、日本人が関与した最も激しい戦闘はスマランで起きた。10月14日、イギリス軍がこの都市を占領し始めた。退却した共和党軍は報復として[要検証 – ノート]、捕らえていた130人から300人の日本人捕虜を殺害した。日本人500人とインドネシア人2000人が殺害され、日本はイギリス軍が到着して6日後にこの都市をほぼ占領した[91]。, このスマラン事件は、日本が連合軍に敗れたことを知ったインドネシア共産党がスマランで武装集団を組み、共産党下の独立を目論み行われたものであるという[3]。当時この共産党過激派によって「日本軍は連合軍の手先となって、インドネシアの独立を妨げる敵だ」「日本人は水道に毒を入れた」などのデマが広がっていた[3]。共産党過激派は日本軍が反撃できないことを知って武器を奪い、日本の民間人を殺害し、ジャワ地区の防衛司令官の邸を襲撃して旅団長を監禁し日本海軍将兵らを拉致した。スマランの治安に当たっていた日本の歩兵隊は拉致日本人約400人の救出のためにインドネシア共産党過激派との戦闘を余儀なくされた。突入するとすでに130人の日本人が惨殺されていた[3]。日本兵らが死ぬ間際に壁に血書し「インドネシア独立万歳」「インドネシアの独立に光栄あれ」(「バハギャ インドネシア ムルデカ」というインドネシア語で)、「天皇陛下万歳」という血文字が残っていた[3][2]。さすがにその血文字はインドネシア側に非常な感動を与えたため、その後に記念として保存されている[2]。, 1949年までに、オランダ当局は1038人の容疑者(蘭印占領に関与した拘束日本兵)に対して448件の戦争犯罪裁判を行った。そのうち969人(93.4%)が有罪となり、うち236人(24.4%)が死刑判決を受けた[93]。, 日本の占領下で、様々な教育を身につけ日本の礼儀作法や文化を好意的に受け入れていた子供たちや人々もいるが[2]、社会的抑圧や経済的困窮を経験した一般住民は、日本による占領を否定的に捉えている者もいた[94]。, 日本軍政の負の評価を大きくしているものが日本人の無遠慮な言辞や粗野な行動、原住民に抱かせた恐怖心と考えられると、芳賀美智雄は述べ、「誇張して伝えられている面もあろうが、軍人の中でも憲兵がその最たるものと言えよう」と見ている[95]。憲兵は、主として軍事警察を掌る軍隊内の警察であるが、兼ねて行政・司法警察も掌っていた。また、海軍には憲兵はなかったが、海軍軍政地域に憲兵と類似の海軍特別警察隊を臨時編成している[95]。, 戦時中に憲兵の取調べを受けたインドネシア人は「ケンペイタイは、常軌を逸する ほど乱暴で残酷でした。・・・私は、眼鏡をはずされ、取調べのあいだじゅう、粗野な言葉 で怒鳴り散らされるばかりでした」と[96]、憲兵の厳しい取調べの実態について回想している。ジャワ軍政監部治安部で勤務した糀谷慶次郎は「上陸直後、軍政警察ができるまで、治安維持は憲兵隊がすべてやっていた。とくに地方においては、憲兵というとぶるっと震えたぐらい怖かったですからね」と述べつつ、「スパイの摘発は日本軍の安危に係わる問題であって戦闘行動、作戦行動であった」と語っている[97]。中にはやり過ぎの傲慢すぎる憲兵もいたであろうが、一般的に見て憲兵の厳しい取り調べはスパイ摘発の職務のため仕方ない面もあり、憲兵の怖さはインドネシアだけではなく日本の国内でも同様であった[98]。, 一方、インドネシア国軍関係者の間では、比較的肯定的に評価されている[99]。民族主義指導者の一人、イワ・クスマ・スマントリ(Iwa Kusuma Smantri)は、「日本軍がインドネシア人に行った教育により、漁労、農業、その他の産業分野における作業方法も改善されるようになった。・・・インドネシア人は、各専門分野におけるマネジメントの方法を学んだ。その中には、農園管理や農業技術の管理から武器を扱う技術まで含まれていた」と述べており[100]、日本軍政当局は、インドネシア人に行政や農園・企業経営のノウ・ハウを学ぶ機会を与えた[101]。, 戦後の1987年、アラムシャ第三副首相は日本占領下の時代を振り返りながら「日本軍の軍政は良かった」と述懐している[102][2]。, 我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間にわたり、幾度か屍山血河の闘争を試みたが、オランダの狡智なスパイ網と、強靭な武力と、過酷な法律によって、圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が欣喜雀躍し、感謝感激したのは当然である。(中略)日本軍の軍政は良かった。…行政官の教育は徹底したものだった。原田熊吉ジャワ派遣軍司令官の熱烈な応援により、PETAが創設された。PETAは義勇軍と士官学校を合併したような機関で、38,000名の将校を養成した。兵補と警察隊も編成され、猛烈な訓練をしてくれたばかりでなく、インドネシア人が熱望する武器をすぐに供与してくれた。…(日本が連合軍に)無条件降伏した後も、多数の有志将校がインドネシアの独立戦争に参加してくれた。…経験豊かでしかも勇猛果敢な日本軍将兵の参加が、独立戦争を、我々に有利な方向に導いたか計り知れない。数百年来インドネシアに住む、数百万の中国人の大部分はオランダ側に加担して、インドネシア軍に銃を向けた。, 日本軍は1942年にジャワを占領後、「アジアの光日本、アジアの母体日本、アジアの指導者日本」という三つのスローガンを掲げた三A運動を展開した, 1940年の欧州ではドイツ進軍の影響から、オランダ政府が女王と一緒にロンドンに亡命しており, 独立戦争におけるインドネシア側の推定死亡者数は4万5千から10万人、そのほか民間人の死亡者数が2万5千人超で最大10万人にのぼる可能性があるとされる。詳細は英語版, これは蘭印だけを指す用語ではなく、マレー、グアム、パラオなど、大日本帝国軍が太平洋南側に進駐した占領地一帯のことを「南方領土」と呼んでいた。具体的な領土拡大(戦線)の経緯は, William Bradley Horton, "Comfort Women," in, Poelgeest. その部隊は二週間ぐらい村に駐屯していましたが、その間に、私は兵隊さんたちと色々と話をしました。彼らはみな優しくて、私の家へ遊びに来るようになりました。・・・私の母は朝から晩まで一生懸命に色々なお菓子を作ったり、ナシゴレン(インドネシア風チャーハン)などを作って食べさせていました。兵隊さんたちは母のことを「お母さん」と呼んで、家にやって来ては「お母さん、ライスを作って下さい」などと頼み、母が張り切って作っていました。・・・また兵隊さんたちは律儀にそのお礼にお金を払おうとするのでした。私は「ノー、ノー、いらない、いらない」と言うのですが、みなきちんと払っていました。, オランダによってインドネシアは17世紀以来、350年も占領されていました。オランダの統治時代の生活は酷いものでした。というのは、オランダがこの地に来たのは、この国で生産されたものをヨーロッパに持っていくためだったからです。それが、植民地主義の始まりでした。・・・今私が住んでいるのはジャカルタ市の中心地ですが、オランダ時代は、インドネシア人は住むことが出来ない地区でした。・・・ Adapun usaha tersebut diwujudkan dengan pelaksanaan program berikut, (インドネシアを占領していた際、社会分野における日本政府の取り組みは、労働力として日本の占領地域で人々の力を強要することによって行われた。この取り組みは、次のプログラムを実行することで実現した。)※意訳, ①Romusha(労務者):すなわち日本植民地時代に行われていた無報酬の強制労働。これによって道路、飛行場などの公的施設の建設に労働力が向けられた。  今日に至っては、米・英および多くの国が、逆に日本民族の優秀性をしきりに説きはじめているのに、なおわが国のいわゆる進歩的文化人は、あらゆる手段、特に教育において青少年に対し、祖国を軽視せしめるような行為や論説をつづけてやまない。 オランダ東インド会社が17世紀に現在のジャカルタへ商館を設置して以来、インドネシアの島々はオランダの植民地として数百年間支配されていた。 1942年1月、日本軍の進攻により300年続いたオランダの植民地支配はあっけなく崩壊した。 1.]" (栄養失調で腹が膨らむ病気の流行) Hal ini dapat dibuktikan dengan adanya: (強欲な日本は、次々に人民の富を搾取したため、3年半のみの占領で貧困と苦痛を与えた。これは次の存在から証明できる。) [Tweede Kamer, vergaderjaar 93-1994, 23 607, nr. 5・ インドネシア人の団結を恐れ、一切の集会や団体行動を禁止した。 3人のインドネシア人が路上で立ち話することすら、許さなかった。禁を犯せば、反乱罪で処罰した。 スカルノ(Sukarno/1901-1970)は、オランダ植民地からの独立により建国されたインドネシア共和国における初代大統領。雄弁な演説とカリスマ性で祖国を独立へ導いた。, オランダ東インド会社が17世紀に現在のジャカルタへ商館を設置して以来、インドネシアの島々はオランダの植民地として数百年間支配されていた。, 1942年1月、日本軍の進攻により300年続いたオランダの植民地支配はあっけなく崩壊した。, 日本軍は、オランダに捕えられ流刑に処されたスカルノやハッタらの民族主義運動の指導者を解放。, 郷土防衛義勇軍(ペタ/PETA/Pembela Tanah Air)を設立して軍事訓練を施し、将来のインドネシア独立への基礎を築いていった。, 1944年9月7日には、小磯首相によって将来の独立を許容する旨の声明、いわゆる小磯声明が発表された。1945年3月にはインドネシアで独立準備委員会を発足させ、スカルノやハッタらによる独立宣言を準備させた。, そしてポツダム宣言受諾から2日後の1945年8月17日、スカルノ私邸に結集した約1,000名の立会いの下、インドネシア独立宣言を発表(上写真)。スカルノが首班に指名され、インドネシア共和国が成立した。この独立宣言は日本の軍政下で準備されたため、日付には皇紀(2605年)が用いられている。, しかしオランダは独立を認めなかった。1947年7月、仲介役のイギリス軍(主に英領インド軍)がインドネシアから撤退すると、オランダ軍はインドネシアの主要拠点へ軍事侵攻を開始。インドネシア独立戦争の火蓋が切って落とされた。, 戦闘には日本に引き揚げなかった元日本兵約3,000名が加勢した。旧日本軍部隊は連合国に押収されるはずの武器をインドネシアへ横流しし、3万丁以上の歩兵銃、数百の野砲、軽戦車、トラック、軍刀などが独立派の手に渡った。, 12万人以上のオランダ軍を前に、旧日本兵の奮闘も及ばず、1948年12月にはインドネシア共和国の臨時首都ジョグジャカルタは陥落。スカルノ大統領、ハッタ首相らは逮捕された。開戦から80万人以上のインドネシア国民が犠牲となり、1,000人以上の旧日本兵も命を落とした。, 存亡の危機に瀕したインドネシアだったが、国際世論はオランダを強く非難。国連安保理はスカルノ大統領らの釈放を決議すると、アメリカもオランダへの経済援助(マーシャル・プラン)を停止。オランダは和平協議へと強い外交的圧力をかけられていった。, 1949年7月6日、スカルノ大統領らが解放されると、同年にオランダの首都ハーグで開催された円卓会議の決議により、12月27日にはインドネシアの主権はオランダ傀儡政権との連邦共和国に移譲された。, 1950年には連邦が解体され、同年8月15日、単一のインドネシア共和国の樹立が宣言された。ここに、インドネシアの独立は名実ともに現実のものとなった。, 「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り幾度か屍山血河の闘争を試みたがオランダの狡知なスパイ網と強靱な武力と苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し感謝感激したのは当然である。」, 「我々アジア・アフリカの有色民族はヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが全部失敗した。インドネシアの場合は、350年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみてアジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった。」, 「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。大東亜戦争というものは本来なら私達インドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと思います。もしあの時、私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。大東亜戦争はそういう戦いだったんです。」, 1945年8月17日に独立宣言を行ったインドネシア。この8月17日は独立記念日としてインドネシアの祝日となり、毎年独立記念パレードが開催されている。, 動画では、パレードの前日祭に集まったインドネシアの人々が、日本の歌である『愛国行進曲』、『愛国の花』、『太平洋行進曲』などを皆で楽しげに歌う様子が捉えられている。, 歌詞の意味こそ知らずに歌っているのかもしれないが、みな一様に明るく楽しげに、まるで昔を懐かしみ愛おしむかのように、声をそろえて日本のメロディを口ずさんでいる。, 戦後の自虐史観を植え付けられた日本ではもう二度と見られない、そして日本のマスコミでは絶対に取り上げられない、身を挺してインドネシア独立を導いた日本への思いが、この動画にはありありと映し出されている。, まさにそれは、異国に咲いた愛国の花。戦後教育で失われた日本人の魂のかけらが、確かにそこにはあった。. 日本の敗戦後、昭和20年8月17日、初代大統領に就任したスカルノは独立を宣言した。, ところが、日本軍に駆逐されたオランダは9月下旬、「インドネシア人は極めて従順な支配しやすい種族である。日本軍が降伏してしまった現在、我々が上陸すれば、彼らはただちに元どおり従順になるに違いない」 と考え、インドネシアの独立宣言を無視してイギリス軍とともに、再度インドネシアを 『 侵略 』 すべくスラバヤに上陸した。 英国人と共に 有色人種蔑視(べっし)の傾向が特に強いオランダ人によって、 350年も続いたジャワ (現、インドネシア)の植民地支配は過酷なものでした。, 原住民(インドネシア 人 )は家畜よりもひどく扱われ、一握りのオランダ人支配者が 数千万人の原住民の生殺与奪の権利を握っていました。本国ではいち早く廃止されていた死刑や流刑は、誰はばかることなく堂々と実施され、1848年までは、体に烙印を押すことさえも行われていたのです。, オランダの植民省が懸命にその公表を阻止しようとしたオランダ人検察官レムレフの報告書によれば、「スマトラ島のタバコ農場では、オランダ人は現地人を米国の黒人奴隷と同じか、それ以下に扱い 「ムチ打ち、平手打ち」は当たり前だった。また現地人労働者の生命は軽視され、ごく簡単に殴り殺された。 スマトラ島の農場では、支配者であるオランダ人が意図的に米を栽培させず、ビルマ・タイからの輸入米に頼っていたので、 島民は米が手に入らず 、生きてゆくためには労働者としてオランダ人が経営する植民地農場で働くしか方法がなかった。刑務所で過酷な労役を課せられていた囚人が、元のオランダ人農場よりも食事の質が良いからと、刑期を終えても出所を拒んだ例もあった」とあります。, 近親者の葬儀でも作業を休むことは許されず、病気になると農場内の鉄格子のはまった病棟に入れられはしましたが、抜き打ち検査で係官が目にしたその光景とは、 鉄格子から鼻をつく悪臭が外に漂い、数平方メートルの空間に、男2人、女8人、それから24時間前に死んだ死体が1つ臥(ふ)していた。飲み水も便所もなく、排泄物は土を掻き寄せて排泄物にかけ、壁の隙間から外に押し出すだけだった。 飲み水が欲しい場合には、外を通りかかる労働者に頼み、1日1回支給される食物を水と交換してもらい手に入れるしか方法はなかった。目を覆うばかりの、吐き気すら覚える惨状であったと言います。病気を治す為の病棟どころか逆に、病気になった際の休養や、怠業をさせない為の「みせしめ」としての懲罰小屋というのがその実態でしたが、現地人が虐待により死亡した場合でも、オランダ人農場主の責任が問われることはありませんでした。, 太平洋戦争の際にジャワ(インドネシア)占領に参加した近衛連隊の総山(ふさやま)孝雄氏の記述によれば、「オランダ人は高床の家に住み、現地人は土間に寝た。オランダ人は「より取りみどり」で現地の女性を現地妻としたが、オランダ人から夜に呼ばれ相手をさせられる場合に限り、現地妻は床上に寝るのが許された。オランダ人は統治戦略上、混血の子供にはオランダ国籍を与えたので、母親は裏の土間で寝たが、子供は床上に起居して自分の母親を下女のように叱りながら、こき使っていた」とあります。, オランダによるインドネシアの植民地支配は、私たちが考えていたような紳士的な代物ではなかったのです。, また、オランダによるインドネシア支配に関しては、西欧列強による「植民地支配の方法」を大変わかりやすく説明下さっていますので、『侵略の世界史』(清水馨八郎著)より引用させていただきます。, 「オランダは、アフリカおよびインド洋の沿岸地域にあったポルトガルの貿易拠点を次々に奪い取り、17世紀中ごろには、現在のインドネシアを中心とした地域に、確固とした拠点を築いた。これ以降、330年間もの長きに渡って、オランダのインドネシア植民地支配が続くのである。, 四、社会の流通経済は華僑(中国人)にやらせ、経済搾取によるインドネシア人の憤慨と憎悪を華僑に集中させる。, 六、全国各地で用いられていた320の部族語をそのままにして、1つの標準語にまとめる企てを禁止する。, またオランダは、コーヒー、砂糖キビ、藍、茶、肉桂などの「強制栽培制度」を導入した。, (※私たちがプランテーションと呼ぶもので「植物の栽培」と教わっただけでしたが、実態は白人国家が贅沢(ぜいたく)をするための植民地農場であり、現地住民は、自分たちが食べるための農作物を栽培することすらできなくなり、たびたび飢饉(ききん)に襲われ、多くが餓死(がし)させられていた。:筆者追記), しかもオランダは直接手を下さず、諸侯(しょこう)を使って分割統治し、その上前をはねるという、巧妙な政策をとった。人民搾取(さくしゅ)の悪性の恨みを華僑(かきょう)や諸侯に向けさせたのである。, イギリスのインド支配でもそうだが、植民支配を会社経営(※支配国の経営とはせず、民間企業の形を取った。:作者追記)としたのだから、利益の追求が最大目的で、原住民の福祉(ふくし)など眼中にないのは当然である。植民地とは本国の国益中心で、現地から搾り取れるだけ搾り取るために存在するのである。この点、明治以降の日本の植民地政策(日本だけは、拓殖を目的とした日本への併合であった:筆者注)とは雲泥の違いであった。」 (引用終了), http://www.youtube.com/watch?v=OCy4xlS1EBY, http://www.youtube.com/watch?v=K70rm_-e-OA&feature=related, http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genin-2.htm#jiei, http://ochimusya.at.webry.info/200908/article_14.html, 四、社会の流通経済は華僑(中国人)にやらせ、経済搾取によるインドネシア人の憤慨と憎悪を, 六、全国各地で用いられていた320の部族語をそのままにして、1つの標準語にまとめる企てを. (以下省略) Copyright © マタログマガジン. ], Atjeh Post, Minggu Ke III September 1990. halaman I & Atjeh Post, Minggu Ke IV September 1990 halaman I. Piccigallo, Philip; The Japanese on Trial; Austin 1979; イワ・クスマ・スマントリ『インドネシア民族主義の源流-イワ・クスマ・スマントリ自伝-』後藤乾一訳(早稲田大学出版部、1975 年)105 頁。, en:Japanese occupation of the Dutch East Indies, en:Indonesian National Revolution#Impacts, "Spell of the Rebel, Monumental Apprehensions: Japanese Discourses On Pieter Erberveld,", The Kingdom of the Netherlands Declares War with Japan, Library of Congress, 1992, "Indonesia: World War II and the Struggle For Independence, 1942–50; The Japanese Occupation, 1942–45", "Pramoedya and the Comfort Women of Buru A Textual Analysis of Perawan Remaja dalam Cengkeraman Militer (Teenage Virgins in the Grasp of the Military), "Hidden Sexualities and Secrecy of Prestige: The Development of Military Prostitution in Borneo", https://books.google.com/books?id=GIHcaFVxXf0C&pg=PA22, Women made to become comfort women - Netherlands. 「我々はようやく力がついてから全世界の見ているところでオランダとの約束を全部破り捨てた。つまり 植民地主義 と戦うには力がないと勝てない。オランダと戦う力、つまり 軍事能力 を戦時中、日本 が与えてくれたおかげで我々は 独立 することができた」, これが、『 東京裁判 』 で裁判官となり、「日本の侵略戦争」 を裁いてきたイギリス、オランダという白人国家の真実の姿なのである。 ちなみに、すべての白人国家は、植民地で行った、侵略、拷問、虐殺、略奪、強奪、強姦、輪姦に関して、何ら謝罪や賠償は行ってはいない。, 戦時中、日本軍がインドネシアをわずか9日間で落とすと、すぐに降伏して「第1次大戦の時に日本人が優遇したドイツ人捕虜のように大切にしろ」と要求しました。, 要求の通り日本人はオランダ捕虜の面倒を見てあげたにも拘らず、戦後、自分たちが日本軍の前にわずか9日間で降伏したふがいなさを隠すため、「残忍な処遇を受けた」とデタラメを言って日本人に対してB・C級戦犯裁判をおこない、連合軍の中で最多の226名もの日本人を処刑しただけでなく、, これが、日本人が 「正義の裁判」 と信じて疑わない東京裁判の判事を引き受けた国のやっていたことなのである。, 戦後、多くのインドネシア人は、日本により教育を受けることが出来たこと。日露戦争で世界最強の軍事力を持った白人国家のロシアに日本が勝利したことと。日本軍がわずか9日間でオランダ軍 (白人)を殲滅(せんめつ)したことで「有色人種でも白人に勝てるのだ」という自信を得たこと。そして多くの日本兵の犠牲があって独立できたことに、大きな感謝の心を日本に持ち続けている。, 独立戦争で命を落とした元日本兵は、1,000名を超えた。彼らはジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめとする各地の英雄墓地に葬られた。戦後、生き残った元日本兵も、インドネシア国籍を与えられ、亡くなった時は国葬となり、儀仗兵(ぎじょうへい)に担がれて英雄墓地に埋葬される。, また、インドネシアの独立記念日には、男女2人に皇軍の扮装をした1人を加えた計3人で、国旗を掲揚しているのです。, それは西暦ではなく、日本古来からの暦である紀元節(皇紀2605年)によって表されているからなのです。, 昭和33年、訪日したスカルノ大統領は日本へ感謝の意を表し、特に、独立戦争で大きく貢献した市来龍夫と吉住留五郎に対し感謝の言葉を送った。, また、スカルノ大統領が最も尊敬し敬愛している人物の一人に、日本陸軍 今村均(ひとし)大将がいたことを知っている日本人は、極わずかしかいない。戦後、今村大将がインドネシアに行けば、国を挙げての国賓待遇であった。そのご子息がインドネシアに渡るだけでも、国を挙げての大歓迎となったほどなのに・・・である。, これらの事実を、政府もマスコミも、学校教育の現場でも、日本を悪く言うことで快感を覚える日本のエリートたちによって創られた 『 日本の 自虐史 の歴史 』 を教える都合上、隠し続けたのである。, 一切学校では教えず、テレビをはじめとするマスコミが黙殺する 『 日本陸軍の真実の姿 』 が、「インドネシア独立の歴史」 の中にもあるのです。, 「我々が(オランダから)独立を勝ち得たのは、日本があれだけ戦ったのに、同じ有色人種の我々に同じことが出来ない訳はないと発憤したからである」, 「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです」, 「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り幾度か屍山血河の闘争を試みたがオランダの狡知なスパイ網と強靱な武力と苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し感謝感激したのは当然である」, 「我々には、日本を批判するだけの韓国や中国と違って歴史とプライドがある。 Koninklijk Instituut voor Taal-, Land- en Volkenkunde (Netherlands). インドネシア人の歴史認識を知りたかったら、インドネシアの歴史教科書を読むことがいい。日本とインドネシアの関係についても書いてある。1942年に、日本軍がオランダを降伏させてインドネシアを占領した。全体的にみたら日本は悪者になっている。 オランダ軍は戦車、飛行機、重機関銃など近代装備の部隊約10万人。 インドネシア共和国軍は兵員こそ200万人だったが、武器は日本軍より秘密裡に渡された小銃4万丁と数百の野砲、トラック、弾薬、軍刀ぐらいで、大半の兵士は竹槍を手に立ち向かった。, ここからインドネシアの独立を守るための、侵略者『オランダ軍』との壮絶な戦いが始まったのである。 4年半にもわたる 『オランダ侵略軍』 との戦争で、インドネシア側が払った犠牲は婦女子も含め死者だけで80万人、負傷者は1,000万人を超え、無差別爆撃で失われた財産・家屋の被害額はとても算出できる額ではなかった。, ところが和平交渉では、オランダはインドネシアの犠牲者に謝罪するどころが、驚くべき要求をインドネシア側に突きつけた。, インドネシアが受けた被害を補償するどころか、「オランダの戦費」、「インドネシア政府のオランダ人官吏の恩給」、「オランダ人所有の不動産の権利を認めること」、「北スマトラの油田の開発費を払うこと」などまで要求したのである。, インドネシアは独立を認めてもらうため、この理不尽極まりないオランダの要求を、泣く泣く飲まざるを得なかった。そして完全独立を達成し、オランダによる再侵略の心配がなくなった1963年、ようやく、それらオランダの 「理不尽な要求」 を世界に向かって否認した。, 当時のインドネシア外相であったアブドルガニー氏は、江崎道朗氏のインタビューにこう答えている。 インドネシアの場合 . 歴史上初めてアジア人が白人に勝ったという1904~5年の日露戦争のことについては高等師範学校時代に本を読んで知りました。私は歴史が好きでしたから、ジャカルタの高等師範学校に入った後に、そういう日本についてのことを知るようになりました。 3・ 社会の流通経済は華僑にやらせ、経済搾取によるインドネシア国民の憤慨と憎悪は華僑に集まるように仕向けて、オランダ人はいい子になり通した。 C. rakyat sangat kekurangan bahan pakaian, sehingga tidak sedikit yang memakai pakaian dari karung goni. Jepang dengan segala keserakahannya terus-menerus memeras kekayaan rakyat, sehingga Jepang yang hanya 3.5 tahun menjajah Indonesia menyebabkan kemiskinan dan kesengsaraan. インドネシアから日本によってオランダが追い出され、インドネシアが独立するということは神様の恵みなのです。・・・・ Afdeling Documentatie Modern Indonesie 2001, "Tempo: Indonesia's Weekly News Magazine, Volume 3, Issues 43-52" 2003, http://www.atjehcyber.net/2011/08/sejarah-jejak-perlawanan-aceh.html, "Berita Kadjian Sumatera: Sumatra Research Bulletin, Volumes 1-4" 1971, "Sedjarah Iahirnja Tentara Nasional Indonesia" 1970, "20 [i. e Dua puluh] tahun Indonesia merdeka, Volume 7", "Sedjarah TNI-Angkatan Darat, 1945-1965. ②Kinrohosi(勤労奉仕):指導者や時代の有力者の為の無報酬強制労働, 要するに、日本が社会インフラを整備した際に、インドネシアの人々に強制労働を強いていたという記述です。こういった内容の後に、「労務者や勤労奉仕者の役になって寸劇を行ったうえで、グループディスカッションを行いましょう」という記載があります。, それ以外にも日本が植民地時代に行ってきた残酷なことはそのまま赤裸々と書かれています。グループディスカッションもあるため、人によっては強く印象や記憶に残ることも考えられます。. [Tjet. 制連行の実態について, 戦後70年談話(安倍談話)とは,  オランダの植民地政策は、一言で評するなら「合理的」という言葉がしっくりとくる。(中略)その実態は. 本日8月17日(土)はインドネシアの74回目の独立記念日であり、公的機関や学校では記念式典が行われ、住宅街ではパン食い競争ならぬクルプック食い競争(Lomba Makan Kerupuk)で盛り上がり、スタバではドリンクが半額になります。 ところでインドネシアで仕事をしている人にとっては、一般常識の基本のキかもしれませんが この質問に対して、意外にもオランダから独立したという人がいると思えば、いや大日本帝国の軍政からの解放だという人もいれば、特定の国は重要ではなく帝国主義に基づ … Pada tahun 1944 Perdana Menteri Koiso memberikan Perdana Menteri Koiso janji kemerdekaan di kelak kemudian hari kepada rakyat Indonesia. A. penyakit busung lapar yang merajalela. (食料の量と質が低下したため、多くの人民が餓死で死亡) 's-Gravenhage: Sdu Uitgeverij Plantijnstraat. 殆どの人々には教育の機会がなく、読み書きが出来ない子供たちも沢山いました。・・・それは「インドネシア人を無知蒙昧のままにしておく」というオランダ政策の一つだったのでした。オランダ人は原住民であるインドネシア人に対して、はっきりと下等階級という扱いをしていました。・・・・小さい頃の私をもっと傷つけたのは、町の中心地にあったスイミング・プールでした。プールの入り口には大きな看板があり、「犬とインドネシア人の立ち入り禁止」と書かれていました。・・・, 第2次世界大戦前、アジアのほとんどの国は白人たちの植民地となっていました。それを、日本が白人たちと戦うことによって解放したということは間違いのない真実です。 (衣料が不足したため、麻袋で作った服を着る人が少なくなかった), ではここから独立の際に関する記述を見ていきましょう。まず目を引いたのが以下の記述。. それは始まりからそうだったのです。つまり、それは1904年の日露戦争からでした。私は第2次世界大戦前から、日本がロシアに勝ったことを知っていました。そして、日本の発展していく様を見てきました。 「お金を出せ」などとは、360年間、わが国を支配した、オランダにさえ要求しない」, 「今、インドネシアでもその他の国でも、大東亜戦争で日本の憲兵が弾圧したとか、労務者を酷使したなどと言っているが、そんなことは小さなことだ。 いかなる戦場でも起こり得るし、何千年前もそうだったし、今後もそうだ。日本軍がやった最も大きな貢献は、我々の独立心をかきたててくれたことだ。 日本人はインドネシア人と同じように苦労し、同じように汗を流し”独立とは何か”を教えてくれた。 これはいかに感謝しても感謝しすぎることはない。このことはペタ(日本軍が育成した祖国防衛義勇軍)の訓練を受けたものは、一様に感じていることだ。 特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍約千人(※一説には3千人以上:筆者注)帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと闘い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績をたたえて殊勲賞を送っているが、それだけで済むものではない」, 「日本軍が米・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみてアジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった。そして実は我々の力でやりたかった」(昭和32年の来日の際の発言), 平成3年、村山首相(旧社会党:現民主党と社民党)がASEAN諸国を謝罪して回った時、インドネシアの東欧大使を歴任したサンバス将軍は、, 「日 本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。  そんな時に行った村山演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。  村山首相は日本の果たしてきた歴史を踏まえ、A・A(アジア・アフリカ)の悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。  かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である 」, と、嘆いていた。 (『(中島慎三郎「アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論」『祖国と青年』1994年2月号), 第1に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展をとげた。, 第2に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。, 第3に、職場からオランダ人がすべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事をまかせた 」, 私は、大東亜戦争中、日本の軍政監部の指導の下で色々なことを学ばせて頂き、さらには、日本に留学までさせて頂きました。それによって、私は成長させて頂き、人生が拡がっていきました。ですから、私は日本に大変感謝しています。・・・ 4・ オランダ人は、立地条件が好くて、高燥で風景のすぐれた地域に、堂々たる別荘街を設けて、現地人の住居を寄せつけず、オランダ人を現地人の及びもつかない高等な人種と思わせ、抵抗をあきらめさせるように仕向けた。 インドネシアが植民地支配を初めて受けたのはヨーロッパの列強が植民地支配を強めていた大航海時代。インドネシアという国家が形成される前のジャワ島がオランダの植民地支配を受けました。インドネシアを訪れたり生活を送ったりするうえで、その土地の歴史は知っておきたいもの。, と疑問を抱くあなた。この記事では、インドネシアの植民地の歴史とインドネシアと日本の歴史について紹介しています。インドネシアの植民地の歴史について興味のある方は是非参考にしてください。, インドネシアの歴史を調べる時に必ず出てくるオランダ。オランダはインドネシアを植民地支配していた国の1つです。はじめに、インドネシアとオランダの関係、さらにインドネシアと日本の関係について紹介します。, オランダやヨーロッパ諸国がアジアに進出してきた15~16世紀は大航海時代。インドネシアのみならず、インドや東南アジアの気候は香辛料の栽培に適しており、ヨーロッパ諸国は西欧の食生活で不可欠だった香辛料の獲得を試みます。, 1596年、オランダの商船隊がジャワ島西部に来航し、1602年にはオランダ東インド会社(VOC)を設立。ここからインドネシアではオランダによる植民地支配の時代が始まります。, オランダによる植民地支配がはじまる前からイギリスやポルトガルがインドネシアにやってきましたが、オランダが追いやり、インドネシアの主導権を握ることになりました。現在でも、北ジャカルタのクタ地区にはVOCの倉庫があります。, オランダがインドネシアに来航したころ、日本は豊臣秀吉が全国を統一していた時代。オランダ東インド会社が設立した翌年(1603年)は、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、江戸幕府が開かれる年です。当時、日本もスペイン・ポルトガル・オランダと貿易を行っていました。, その後、江戸幕府は士農工商の身分制度の崩壊やキリスト教の布教を恐れ、鎖国を開始。ポルトガル船の入港を禁止した1639年から、ペリーが来航し日米和親条約を結ぶ1854年まで鎖国をします。, なお、キリスト教の布教に関心が薄かったオランダと中国とは、出島で貿易を続けており、オランダからは、胡椒や生糸などを輸入していました。もちろんその中にはインドネシア産のもの日本へ入ってきたことでしょう。, オランダがインドネシアを植民地支配してから、インドネシアはどのように独立に向かうことになるのでしょうか。ここではインドネシアがオランダから独立する過程について紹介します。, 1602年にオランダが現在のジャカルタにオランダ東インド会社を設立して植民地支配を開始して以降、約300年にもわたってオランダの植民地としての支配が続きます。, オランダはインドネシア農民の土地を奪い、コーヒーやさとうきび、香辛料や染料などの利益率の高い作物を作らせました。インドネシアの人々を家畜のように働かせたといわれており、また利益率の高いものを作らせた結果、米や小麦畑の数も減り、多くの地域で飢餓が発生しました。, また、この植民地支配ではオランダによる徹底的なインドネシア人の愚民化政策も特徴として挙げられます。農業をさせるだけなので教育は必要ない、また知識人のよる独立心の芽生えも抑制する、といった目的で行われました。この政策によりオランダは300年もの間、インドネシアの統治が可能だったと考えられています。, その後、インドネシアがオランダからの植民地支配から独立する大きなきっかけとなった太平洋戦争。1942年当時、力を持っていた日本はインドネシア以外にも既に東南アジアの数か国を占領し、インドネシア上陸後はわずか2か月でオランダ軍を無条件降伏させました。ここから日本によるインドネシアの統治が始まります。, 日本の統治はオランダの植民地支配とは大きく異なっており、教育面において日本はエリートだけではなく庶民に対する教育政策も行っていたり、拘束されていたスカルノとハッタを開放して協力体制をとったりと、日本はインドネシアをオランダから解放したとの意見もあります。, 日本がインドネシアを支配している間に独立の兆しが高まり、その後日本が降伏した1945年にインドネシアは独立宣言を行いますが、オランダが認めず植民地政策を再開します。これにはインドネシア側も反発をし、独立戦争が勃発。この独立戦争はみるみるうちに激化し収集がつかなくなっていきました。, そしてついに東南アジアの情勢のこれ以上の混乱を懸念したアメリカがオランダに撤退を要請します。その後1949年のバーグ協定により正式にオランダからの承認を得て植民地支配からの独立を成し遂げました。独立記念日に関してはスカルノとハッタが独立宣言をした1945年8月17日としています。, この独立戦争で残留日本兵が戦闘に加わったり将兵の教育や作戦指導を行ったりしました。カリバタ英雄墓地には27名の日本人戦没者が埋葬されています。その他にも、中部ジャワ、スラバヤ、バリなどの英雄墓地に日本人戦没者が埋葬されています。, インドネシアの独立までの経緯は上記の通りですが、インドネシアから見た日本はどのような国だったのでしょうか?近年ではインドネシアは親日として有名で、インドネシアには多くの日本企業や日本人が在住しています。, 先進技術やサブカルチャーの影響もあり、インドネシアの人々は日本が好きだ、行ってみたいなどと語る人がほとんどで、つい何十年前まで植民地支配されていた国に対する態度とは思えないほど。, 次に、インドネシアの中学校の教科書に当時の日本の姿がどのように書いてあるかを紹介します。特に日本がインドネシアを植民地支配していた期間と、独立にどう関わったかというところに注目します。, インドネシアの歴史の教科書には太平洋戦争について書かれているページがあり、そこに日本軍が行った植民地政策についての記述は以下の通り。, Ketika menduduki Indonesia, usaha pemerintahan Jepang di bidang sosial yaitu dengan cara melakukan pemerasan tenaga manusia di daerah pendudukan Jepang sebagai tenaga kerja. Sementara itu perjalanan perang telah sampai di titik kritis, sehingga kantor-kantor diperbolehkan mengibarkan bendera merah putih, tetapi harus berdampingan dengan bendera Jepang Hinomaru. 日本が第二次世界大戦で負けた後、日本軍がインドネシアから撤退しました。そこで、インドネシアは独立を宣言しようとしましたが、350年間統治していたオランダが再度植民地化しようとし、独立戦争に … しかし、インドネシア軍はもはや従順ではなかった。日本軍によって訓練され、日本が降伏した後、日本軍が命がけで横流しをしてくれた武器を持ったインドネシアの民衆軍に強襲され、イギリス軍はたちまち一個師団が全滅してしまう。, インドネシア独立戦争には、旧日本軍兵士 およそ2,000~3,000名が、己の良心、生き様、そして 武士道精神 に基づき、本国の命令を無視、脱走兵の汚名を着ることで故郷に残した家族が肩身の狭い思いをする苦悩をも乗り越え、インドネシア独立のために、命を懸けてペタの中心となって戦ったのである。 インドネシアが以前は、オランダと日本の植民地であったことはご存じだと思います。 それでは、1945年8月17日にスカルノ大統領によって独立宣言が発表された後に、再び独立戦争が起こったことはご存じでしたか? そして、インドネシア人指揮官が率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織させ、日本軍政下ではあったものの、インドネシア人がこれまでのオランダ統治下では決して得ることのできなかった権限を与え、軍事教練を行った。終戦までのわずか3年半の日本軍による統治だったが、インドネシア人に教育を施すことにより、自信と誇りと「祖国独立の実現への夢」を与えたのである。, (※ 白人侵略者たちは、何よりも反乱を恐れ、侵略した先の人間たちに軍隊どころが武器などは一切持たせない ), 4 真珠湾攻撃の翌年、1942年1月に日本はオランダに宣戦布告をしました。香港を取り、フィリピンを取り、それからマレーシアを取り、そして、いよいよインドネシアにも上陸する、ということになりました。・・・ Report of a study of Dutch government documents on the forced prostitution of Dutch women in the Dutch East Indies during the Japanese occupation. 面積にしてインドネシア60分の1の小国オランダが、その後、350年間もインドネシアを植民地にして搾取を続けた。, その政策は苛酷を極め、軍事力(暴力)を背景にインドネシア人の土地を次々に奪い、田畑を香辛料や砂糖・コーヒーの畑に代えさせプランテーション<奴隷農場>で作らせた。 インドネシア人の主食となる米はタイから輸入、他の農作物も作ることを許されず、オランダ人に逆らうと食糧が手に入らない仕組みを構築。, 多くの餓死者を出させながら、タダ同然で子供のころから「オランダ人の優雅で快適な生活を支える奴隷」としてこき使い続けたのです。, これら無法なオランダ支配に対しインドネシア人による独立闘争は何度となく起こされたが、力のないインドネシア人たちはすぐに制圧され、多くのインドネシア人たちが(女・子供に至るまで)見せしめの拷問や虐殺にあった。, 1・ オランダの安全と利益に関係のない限り放任して、人民を文盲のままにして置き、各地の土候(サルタン)を使って、間接統治したこと。 つまり、徹底した愚民化政策を敷いた。, 2・ 才智にたけたアンボン人とミナハサ人とバタック人を訓練し、キリスト教に改宗させて優遇し、警察官や軍人として登用した。そして、気に入った女を見つけると野獣のごとき性欲を満たすために強姦、結果生まれてきたオランダとインドネシアの混血児を中間支配階級として使い、民族の分断を策した。 インドネシアではオランダがそういう情報をストップしていて、自分たちに都合のよいことばかりを流していました。それでも私たちは、アジア人で一番初めに白人を負かしたのは日本だということを知ったのでした。・・・ インドネシアにとっての独立とは、時系列的には日本からの独立であっても、オランダによる350年間の植民地支配、3年半に渡る日本軍政による支配の中で形成された民族主義の勝利、尾崎豊的にいうと「支配からの独立」と言えます。 日本は、当時アジアで唯一白人と対等だった国でした。私たちインドネシア人はきちんとした教育も受けられず、何の権利もなく、白人に対して自分たちは劣っていると考えていました。自分たちが白人と対等になれるとは思っていませんでした。 私たちは非常に希望を持っていました。日本がオランダを追い出し、インドネシアを解放してくれるという期待が日ごとに現実味を増してきたからです。どうしてもオランダ人を追い出さなければいけない、というのが私たちの気持ちでした。特にイスラム教徒はそうでした。, 日本が攻めてくるということは本当に有り難かったです。日本人によってオランダ人が追い出されるのですから、私たちは大喜びしました。 「350年続いた軍事力を背景にしたオランダによる植民地支配を、わずか9日間の戦いで終わらせた日本陸軍。インドネシアの独立国作りは、ここから始まった」 オランダによる植民地政策 . 日本占領時期のインドネシア(にほんせんりょうじきのインドネシア、英:Japanese-occupied Dutch East Indies)では、第二次世界大戦中の1942年3月から1945年9月終戦にかけて大日本帝国が占領した「蘭印」と通称される当時のオランダ領東インド(現在のインドネシア)について説明する。, この時期はインドネシア史における最も重要な時代のひとつである。オランダ領東インドは1819年以来オランダの植民地にされていた。しかし、ドイツによってオランダ本国が1940年に占領されたため、オランダは大日本帝国軍に対抗して同植民地を守る能力がほとんどなく、ボルネオへの最初の攻撃から3か月も経たずに日本の陸海軍がオランダ軍および連合軍を圧倒した[1]。当初は、大部分のインドネシア人が喜んでオランダの植民支配からの解放者として日本側を歓迎し[2]、日本はオランダが禁止していた「インドネシア」という呼称を公の場で使用することを解禁した[2]。しかしながら日本軍は、連合軍との戦いを成功に導き勝利を得るための戦略立てとはいえ、占領後しばらくすると、オランダ同様に結社や集会、政治に関する言論、行動および民族旗使用の禁止を布告しインドネシア民衆の期待を裏切ったこともあった(その後は民族結集組織を全国に作っている[3])[4]。また戦争遂行にあたり現地のインドネシア人にとっては厳しい規律の日本式の軍政や皇民化が施され、飢饉を招いた籾の強制供出、防衛強化のためのロームシャと呼ばれる過酷な重労働を課せられた者もあり、戦時下の艱難辛苦に耐えるよう期待されていることを彼らが悟るにつれ、その感情は変化していった「負」の側面もあった[4]。こうした立ち位置の違いにより功罪の両方の意見や認識があるものの、厳しい教育により優秀な人材が育成されたことや、英語やオランダ語ではなく「インドネシア語」が公用語になったことなど、日本の軍政施策が結果的にインドネシアやインドネシア民衆のために役立った「正」の面があることも重要な事実である[4][2]。, 1944年から1945年にかけて、連合軍の主な部隊はインドネシアを迂回しており、ジャワやスマトラのような人口の最も多い地点に入って戦うことがなかった。そのため、1945年8月の日本降伏時にも、インドネシアの大半が依然として日本の占領下にあった。この占領はインドネシアで初となるオランダにとっての深刻な課題であり、オランダの植民地支配を終わらせるものとなった。また、その終結時までの変化は非常に多彩かつ尋常ならざるもので、その後の経緯としてインドネシア革命がほんの3年前には実現不可能な方法で可能になった[5]。しかしながら、オランダはこの元植民地を奪還しようと画策し、外交的、軍事的、社会的な厳しい戦いが5年にわたって行われ、最終的には1949年12月にオランダがインドネシアの主権を認めることとなった。, 1942年までインドネシアはオランダによって植民地化されており、オランダ領東インド諸島(日本では「蘭印」)として知られていた。1929年、インドネシア民族主義の黎明期にインドネシア国民党の指導者スカルノとモハマッド・ハッタ(後の初代大統領と副大統領)は太平洋戦争を予見し、インドネシアにおける日本の進駐が独立にとって有利に働くかもしれないと考えていた[6]。, 日本人は自分たちが「アジアの光」であるとの言葉を広めた[注釈 1]。19世紀末の日本は技術や社会の近代化に成功した唯一のアジア国家で、大半のアジア諸国が欧米の権力支配下にあった時も独立を保ち続け、日露戦争ではロシアという欧州の力を打ち負かしていた[8]。支那事変(日中戦争)の後、日本は東南アジアに目を向けて他のアジア諸国に「大東亜共栄圏」を提唱、これは日本のリーダーシップ下における一種の交易圏として説明された。20世紀前半に日本人はアジアにおける影響力を徐々に拡大し、1920年代から1930年代にかけてはインド諸島とのビジネスを確立した。小さな町の理髪師、写真スタジオ、セールスマンから、大規模百貨店や鈴木商店や三菱グループといった企業までが砂糖取引との関連で進出した[9]。, 1931年に日本人の人口は居住者6949人でピークに達し、その後は主に日本とオランダ領東インド政府との間の経済的緊張から漸減していった[10]。特にムスリム系政党のインドネシア人民族主義者との関係を築くべく多くの日本人が同政府から派遣され、インドネシア人民族主義者達も日本訪問の支援を行っていた。こうしたインドネシアでの民族主義奨励は、日本側のより遠大な「アジア人のためのアジア」という計画に向けた一部だった[9]。大部分のインドネシア人がオランダの人種に基づく植民地システムを廃止するという日本の約束に期待する一方、オランダ支配下で特権的地位を享受していた中国系インドネシア人(インドネシア華僑)はこれを楽観視できなかった。また、ファシズムに対抗するソビエト連邦の統一戦線に追従していたインドネシア共産党の地下組織メンバーも懸念を示していた[11] 。1930年代後半における満州国の設立および、日清戦争後の台湾の日本統治は、反日運動を支援するための資金を準備したインドネシア華僑(中国人)の間に不安を引き起こした。オランダの諜報機関もインドネシアで暮らしている日本人(en)を監視した[12]。, 1941年11月、インドネシアの宗教的・政治的グループ組織かつ労働組合でもあるMadjlis Rakjat Indonesia(インドネシア人民会議)は、戦争の脅威に直面してインドネシア国民の動員を求める覚書をオランダ領東インド政府に提出した[13]。 同政府はこのインドネシア人団体を国民の代表とは見なさなかったため、その覚書は拒否された。その後、僅か4か月も経たぬ内に、日本側がこの群島を占拠していった。, 1941年12月8日、オランダ亡命政府[注釈 2]が日本に対して戦争を宣言した[15]。1月には、アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)将軍の指揮の下、東南アジアにおける連合軍を調整するためのABDA司令部が結成された。侵攻に至るまでの数週間でオランダの政府高官は、政治犯、家族、個人的職員を連れてオーストラリアに亡命した。日本軍が到着する前には敵対するインドネシア人グループ間での対立があり、そこでは人々が殺害されたり、行方不明になったり、隠れ潜んだりした。中国人(華僑)およびオランダ人が所有していた財物は荒らされたり破壊された[16]。, 1942年初頭における日本の侵攻は迅速かつ完璧なものだった。1942年1月までに、スラウェシとカリマンタンの一部が日本の支配下となった。2月までに日本人はスマトラの上陸を完了し、そこで現地のアチェ人にオランダに反抗するよう推奨した[17]。2月19日、既にアンボンを占拠した日本側の東方支隊はティモール島に上陸し、クパン近くの西ティモールに特殊落下傘部隊を降下させた。そして12月には侵攻してきた連合軍を追い出すためにポルトガル領ティモールのディリ地域に上陸した[18]。2月27日、日本阻止を目的とした連合軍海軍最後の奮闘は、ジャワ海域の戦いでの敗北により一掃された[19]。1942年2月28日から3月1日にかけて、日本軍はジャワ島北海岸沿いの4地点に一斉上陸した[20]。最も激しい戦闘が、アンボン、ティモール、カリマンタン、ジャワ海域での侵攻地点で行われた。バリのようにオランダ軍がいない場所では戦闘が行われなかった[21]。3月9日、オランダ軍司令官は総督のアリディウス・チャルダ・ファン・スタルケンボルフ・スタックハウエル(en)と共に降伏した[17]。, 日本の占領は当初、大日本帝国軍旗を振って「日本は私たちの兄」「万歳大日本」などの支持を叫ぶインドネシア人から楽観的な熱意で歓迎された[2]。日本軍が進駐するにつれて、反体制的なインドネシア人が事実上全ての群島地域でヨーロッパ人グループ(特にオランダ人)を殺害するようになり、より大きなグループの居場所については日本軍に確実に知らせていた[22]。 著名なインドネシア人作家のプラムディヤ・アナンタ・トゥールは次のように述べている。「日本軍の到着と共にほぼ全員が希望に満ち溢れていた、例外はオランダ人のために働いていた者だけだった」[23]。, 植民地軍は収容所送りにされ、インドネシア側の兵士は解放された[24]。

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